役の視点、観客の視点、俳優の視点
パフォーマー(演技者)の感性とは、役・観客・俳優の3つの視点を持ちながらパフォーマンスが行えること。そう論じる文章を読みました。著者は西南大学で教鞭を執る安藤花恵氏。『感性認知: アイステーシスの心理学』に収められた「パフォーマーの感性の熟達」という章です。
- 【役の視点】 演じる役の立場で、その状況にふさわしい感情を呼び起こす
- 【観客の視点】 観客の立場で、観客の視点から自分の演技をモニターする
- 【俳優の視点】 冷静に、記憶した段取りを実行する
俳優が持つ3つの視点 – *ListFreak
著者はまず複数の演技論において、「役になりきる」ことと「観客からどう見えているかをモニターする」ことのバランスが重視されていることを紹介し、それぞれを【役の視点】【観客の視点】と名づけます。さらにもう一つ、役になりきりながらも自分の行動を冷静に自覚している【俳優の視点】があるという見解を乗せて、上記の三つ組を作り上げています。この「俳優の視点」について、著者が引用していた18世紀の哲学者ドゥニ・ディドロ (Wikipedia) の『俳優の矛盾 (“The paradox of acting”)』(1)という本に印象的な文章があったので、大ざっぱではありますが訳しました。
ガリックの表情は、ドアの間から顔を出したわずか5~6秒の間に、激しい歓喜から控えめな喜びに、控えめな喜びから安らぎに、安らぎから驚きに、驚きから純然たる驚愕に、純然たる驚愕から悲しみに、悲しみから混乱に、混乱から恐怖に、恐怖から嫌悪に、嫌悪から絶望へと変わり、最初に戻った。彼の魂はこれらの感情すべてを実際に経験していたのか?私には信じられない。あなたもそうだろう。
俳優になってみる
社会で生きるとは社会的役割を演じることだと考えれば、この3つの視点は一般人にも敷衍できそうです。
たとえばあなたが上司として部下Aさんと昨期の評価面談をするとします。「何を言うか」を考えるためには【役の視点】が必要です。面談の目的を考えれば、上司役として厳しい事実を伝える必要もあるでしょう。それを「どう言うか」を考えるためには【観客の視点】が必要です。Aさんの表情から感情を読み取り、その感情が理解できれば、適切な態度や表現を選択できます。
話しながら役を切り替えることもあるでしょう。たとえば「上司というよりは先輩として言うんだけど……」と言うとき、これから言うことは非公式かつ個人的なアドバイスと思ってくれというメッセージを込めているわけです。誰が役を切り替えさせたのか。それはあなたが【俳優の視点】を持っていたからだと解釈できるでしょう。こちらが真剣に・親身になって・正直に言っていることがよく伝わり、結果としてAさんからの納得を得やすいのは、誰の言葉か。そう考えて上司役から先輩役に切り替えたわけです。
ふだん、そういった切り替えは無意識下で行われているもので、意識的に役を演じわけようとすればわざとらしくなるばかりでしょう。ただし時間をかければ習熟できるスキルのようです。演劇俳優については、上述の安藤氏はこう述べています。
『3つの視点すべてに同時に立ちながら演技をするということは難しく、その能力を獲得するには5年以上の経験が必要なようである。』
社会生活では台本もありませんし、観客に相当する相手をより細かく観察したうえで相手の気持ちになったりすることが必要なので、さらに長い経験が必要でしょう。それでも、多くのスポーツやビジネススキルと同様、意識的に型を学んでいくことで無意識的にこなせるようになっていくのではないでしょうか。
上司の例を出したところで、育成者として演じ分けるべき役のリストとして「主師親」を思い出しました。以前『「育てる」ための3つの3か条』というノートで現代風に置き換えましたので、それを引用します。
- 【司としての庇護】責任者として任務を果たす者をかばい、まもる
- 【師としての教導】師匠として弟子をおしえ、みちびく
- 【親としての慈愛】親として子をいつくしみ、あいする
(1) “The paradox of acting” : Diderot, Denis, 1713-1784 : Internet Archive
https://archive.org/details/cu31924027175961
より意訳。ガリックとは同時代の英国の俳優デビッド・ガリック。