「江戸時代、(人材育成で高い水準にあった)会津藩の藩校『日新館』では『ならぬことはならぬものです』と教えた。今は学校でも家庭でもそうした教えができていない。子どもたちには理屈ぬきでダメなものはダメと教えなくてはならない」と強調する。
「心に太陽を唇に歌を」、藤原正彦氏――理屈抜きで戒め教える(あとがきのあと)、日本経済新聞 2007/04/29
「ならぬことはならぬ」とは、いかにも頭ごなしで非論理的な気がします。しかし、困難な意志決定を迫られたときに我々がよりどころにする判断の基準は、実のところそういった「理屈抜きに信じている何か」でしかありません。
困難な意志決定とは、多くが「ともに正しい選択肢」からの選択(『「決定的瞬間」の思考法』)です。例えば、転職するかしないか、するならA社かB社かといった選択は、条件が大きく違わないかぎり、正誤を問える選択ではありません。何を基準に選ぶのかといえば、「ありたい自分」により近づけそうかどうかということでしょう。自分の価値観のようなものが物差しになるわけです。
その物差しが必ずしも論理的でないことは、簡単に確かめられます。
1. こういう人間でありたい、と定義してみる。
2. 「そもそも、なぜそうありたいのだろうか」と自問してみる。
そして答えられなくなるまで2を繰り返してみるだけです。
これは起-動線で提供している「自分ナビ」作成プログラムのエクササイズの一つですが、普通はわずか3問3答くらいで「理屈では説明できない」「自分はこう思うからこう思うのだ」としか説明できない域に達してしまいます。こうはありたいがそうはありたくないといった感情は、合理的な根拠があって起こってくるものではありません。しかし我々は実に多くの決断を、困難な決断であればあるほど、その非合理的な感情に従って行っています。それなのにその感情が何であるか、あらためて言語化して考える機会はほとんどありません。
「ならぬことはならぬ」をただ押しつけても意味がないと思いますが、「ならぬことはならぬ」と言われることで「なぜならぬのか」を考え、結果として自分なりの「ならぬこと」を見出せるとしたら、その押しつけにも意味があるでしょう。
自分の「ならぬこと」は、何だろうか。あらためて考えさせられた藤原氏の言葉でした。