カテゴリー
コンセプトノート

580. なぜ医者は注射を打てるのか

なぜ医者は注射を打てるのか

他者の心を理解する能力について書かれた『人の心は読めるか?』という本に、印象的な言葉を見つけました。

普通の人は、他人に注射しようとするだけで身体がこわばる。医者は、他人の苦しみを実際には感じないが、相手が苦しんでいることは、すぐに推測できる。どうやら、相手の心を理解するルートは二つあるようなのだ。

人の話を聞くときには共感せよ、しかし相手の感情に飲み込まれるなと言われます。たとえば、昇進を逃して落ち込んでいる部下から相談を受けたとします。部下は意気消沈し、混乱しています。上司たるあなたは、適切な言動を選ぶために相手の気持ちを想像するでしょう。それが共感です。しかし部下の感情に飲み込まれてしまい、2人で呆然としていては、上司の務めは果たせません。

しかし、この共感的な理解というのは口で言うほど簡単ではありません。注射のたとえは言い得て妙だなあと思ったゆえんです。

相手の心を理解するルートが2つあるとは、何を指すのか。本書で引用されていた実験を簡単に紹介します。被験者はハリ治療をする医者と一般人。それぞれfMRI装置に入り、人が針を打たれる動画を見ます。動画を見ることで活性化した脳の部位を調べ、活動を推測しようというわけです。(1)

一般人は、実際に針を打たれたときに活性化する領域が活性化しました。つまり他者の痛みを我が痛みとして感じていたわけです。一方プロはそちらの領域は活性化せず、内側前頭前皮質(MPFC)という『他人の心を推測する行為を司る』部位が活性化したとのこと。(2) 大まかな表現をすれば、一般人は「自分の痛みを感じていた」、医者は「相手の痛みを考えていた」のです。

従来から共感を情動的共感と認知的共感に類別する(参考:Wikipedia)考えがありますが、この類別の妥当性はこういった実験によって裏付けられてきています。相手の話を共感的に聞くには、これらのバランスが求められています。

どうやって医者は注射を打てるようになったのか

「なぜ」がわかると、「どうやって」も知りたくなります。医者はどうやってそのような認知的共感の力を鍛えたのでしょうか。ヒントは原注の部分にありました。しかも注射でなくメスの話です。
(原注や参考文献は、邦訳の際に省略されることが少なくないので、訳書を読んだのに原書を求め直さざるを得ないことがあります。本書ではしっかり残されていて、ありがたいかぎりです)

それによると、人体にメスを入れられるようになるための注意深く組み立てられた訓練プロセスがあることを知りました。医学生は、いきなり生きている人間を対象にするのではなく、死体の解剖から始めるそうです。それも最初はうつぶせにして背中から。次は足。慣れてからようやくあおむけに。最後は原注を引用します。
『そして、何カ月もかけて同じ献体を解剖し、人間の身体を切ることに慣れてきたころに、ようやく、もっとも抵抗感のある部分に取りかかる。一番最後にメスを入れるのは顔だ。』

われわれはどのように共感的な理解力を育てるか

人の話を共感的に理解するプロセスは、乱暴なたとえかもしれませんが、情動的共感をメスにして認知的共感を獲得していくようなものだと考えています。あるいは、情動的共感はプローブ(探針)であり、そこからの情報を解釈するのが認知的共感だと考えています。プローブ(情動的共感)からの信号が強すぎて測定器(認知的共感)の針が振り切ってしまった状態が「飲み込まれ」です。

痛みを感じたことがあればこそ人の痛みを想像できます。同じように、相手の気持ちを自分の中に生み出す情動的共感は共感的な理解の基盤です。ただし、それは認知的共感を生み出すための情報の一つであり、それ以上の存在になってしまうと、「飲み込まれ」てしまいます。

医学生の訓練プロセスと比べると、われわれが生活の中で共感的な理解の力を高めるのには難しい面があります。冒頭の例に戻れば、上司として部下からの相談事を選べるわけではないからです。まずは小さな悩みから相談してくれというわけにもいきません。

そこで、相談事の性質を見極めて対処していくための枠組みを考えてみました。観察点を決めることで、やりとりを客観的に観察しやすくなり、飲み込まれづらくもなるはず。

  • 相手の感情の大小
    激しい感情には対処が難しくなります。たとえば、相手が突然涙を流し始めたので、つい動揺・同情してしまい、必要以上に甘くなってしまったとか、言わなくてもよいことを言ってしまったとか、そんな経験はないでしょうか。相手の感情が激しい場合には、相手のためもさることながら、自分のためにもすこし時間を作る必要があります。
  • 類似経験の有無
    相手の語るエピソードと似た経験をしていれば情動的共感を呼び起こしやすくなります。そうでなければ、部分的にでも類似している経験を積極的に思い出す必要があります。
  • 性格的な特性
    感情的な刺激に対する感情的な反応には、人によって固有のパターンというかクセがあります。たとえば正義が果たされていないときに、強い感情を抱く人もいればそうでない人もいます。その感情の種類も、怒りかもしれませんし、悲しみかもしれません。

相手の感情の大小、類似経験の有無、それに自分の性格特性に目を向けることで、情動的共感と認知的共感のバランスを取る、つまり共感的な理解が深まる実感が持てそうかどうか、試してみたいと思います。


(1) Cheng, Yawei, et al. “Expertise modulates the perception of pain in others.” Current Biology 17.19 (2007): 1708-1713.

(2) Amodio, David M., and Chris D. Frith. “Meeting of minds: the medial frontal cortex and social cognition.” Nature Reviews Neuroscience 7.4 (2006): 268-277.