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コンセプトノート

362. なぜ○戒は「しないことリスト」なのか

なぜ「〜するな」形式なのか

モーセの十戒(Wikipedia)とか、仏教の五戒(Wikipedia)とか、○戒というのがありますね。なぜ「〜してはいけない」という形が多いのか、不思議に思っていました。

たとえば、ユダヤ教の十戒にも仏教の五戒にも「殺すなかれ」という戒めがあります。「殺すなかれ」という表現なので、では半殺しまではいいのか?体に止まった蚊を叩くのは?手を洗う(ことによって細菌を殺す)のは?などなど、境界条件に関する疑問がわいてきます。

本などを読むと、戒すなわち「しないこと」ではなく、生きとし生けるものを慈しもうという精神が大事だと書いてあります。であれば最初から「生命を慈しめ」としておけばいいだけのことですよね。

しかし実際には多くの戒が、肯定文に言い換え可能であるにもかかわらず、否定文として伝承されています。何かの理由で、「〜するな」形式のほうが強く心に刻まれて人にルールを守らせる力が強いのかもしれません。

「自由意思」はないけれど、「自由否定」はできる

そもそも「人間が何かをしようと思うきっかけは自由意思によるものではない」という説が有力です。脳機能についての著作が多い池谷裕二は、脳構造の単純な生物の選択が脳のある神経細胞膜のイオン濃度のゆらぎによって決められていることから、人間についても同じメカニズムが当てはまるだろうと推察しています(『脳はなにかと言い訳する』)。

前野隆司も同じく自由意思はないとし(受動意識仮説)、そのメカニズムを脳神経が構成するニューラルネットワークの働きとして説明しています(『脳はなぜ「心」を作ったのか』)。

われわれは、まず発意し、それを行動に移していると考えています。そうではなく、意識下で(勝手に)行動の準備が始まり、われわれはそれを後追いして知覚し、あたかも自分が意識した行動であるかのように錯覚しているのではないかという研究・考察はかなり面白くもショッキングな話ですので、興味のある方は前掲書(どちらも文庫化されています)に目を通してみてください。

しかし池谷氏の本によれば、意識下で行動が準備され、それを脳が「意識」として捉えたあと、なお0.2〜0.3秒のタイムラグがあり、そこで行動を抑止することができるそうです。つまり見出しのように、『「自由意思」はないけれど、「自由否定」はできる』(これは氏の本の見出しからの引用です)のです。

 仮に私に、他人を殴りたいという衝動が生まれたとしましょう。これは脳が自動的に発する意思なので、その願望自体はさすがに仕方がありません。そこには自由はありません。でも、殴ることを止めることはできます。喧嘩して殺してやろうという意思がもし生まれたとしても、その意思を行動に移すのを止めることはできます。
〈自由意思〉はないけれども、〈自由否定〉はできるわけです。

われわれの意志がそのような形で発現するならば、○戒が事実上「しないことリスト」になっているのもうなずけますね。