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コンセプトノート

645. 『私に対して話していない』

クリントン候補に足りないものは、有権者からの好意

来月に迫ったアメリカ大統領選挙の民主党候補ヒラリー・クリントン氏について、次のような論評を読みました。

 「クリントン氏は『私に対して話していない』という意識が有権者にはある。そこが彼女の試練だろう」。政治分析に定評のあるクック・ポリティカルレポートのナショナル・エディターを務めるエイミー・ウォルター氏はこう語る。

 クリントン氏は職業政治家として高い能力を持っているが、理性的、理知的でありすぎるがゆえに、コンサルタントのような印象を国民に与えている。米国人が直面しているイシューに心の底から対峙しているのか、彼女自身がどういう人間で、何に心を振るわせるのか。そういう生身の姿が見えないために、有権者の共感を得られていない、という指摘である。
――『ヒラリー対トランプ、勝者なき論戦』(日経ビジネスオンライン)

高い知能と職業上の実績を兼ね備えながら、その人の話が聞き手の共感を得られない。興味深いというか恐ろしい話です。一体何が足りないのか、すこし整理してみたくなりました。

弁論の説得力には古典的な枠組みがあります。

  • 論者の人柄(ethos/エートス) 論者を信頼に値する人物と判断させるように言論が語られる
  • 聴き手の感情(pathos/パトス) 言論に導かれて聴き手の心が或る感情を抱くようになる
  • 言論そのもの(logos/ロゴス) 言論が証明を与えている、もしくは与えているように見える

弁論術の説得の三種*ListFreak

『生身の姿が見えない』という指摘から、掘り下げるべきは人柄(エートス)のようです。アリストテレスは、人が人を信頼するよりどころは思慮(フロネシス)・徳(アレテー、道徳的優秀性)・好意(エウノイア)の三つであると述べています(『弁論術』1378a)。クリントン氏には、個人メールを公務に流用したといった、思慮や徳に対する批判もありますが、それが信頼されていない決定的な理由とも思えません。特に今回の選挙では、比較対象となる対立候補が思慮や品性を疑われる言動を連発しているので、なおさらです。

残るは「好意」です。これは本人が発揮するのではなく聞き手から寄せられるもの。しかし、好意(エウノイア)については『弁論術』には言及がほとんどありません。訳者の戸塚七郎氏は、好意は友愛(フィリア)の一部であることから特に項目を設けなかったのだろうと註を付け、『ニコマコス倫理学』を参照しています。

好意の源は善

『ニコマコス倫理学』では、互いに好意を持っている状態が友愛であり(1155b)、好意は愛(フィリア)の端緒である(1167a)と書かれていました。ということは、友愛の中身を調べていけばよいわけです。

友愛ないし愛と訳されているフィリアについては、同書にこんな言及があります。
『「愛さるべきもの」とは、しかるに、善きもの(アガトン)か、快適なもの(ヘーデュ)か、有用なもの(クレーシモン)かのいずれかであろう。(1155b)』
ただし「有用なもの」については、それが有用だから愛されるというより、それによって生じる善や快楽のゆえに愛されるとしてこれを退け、善二者に絞っています。

善きものか、快適なものか。有権者がクリントン氏を愛すべき理由として快適さはあまり重視されないでしょう。要するに「善き人」と思えない、ということになります。

聞き手個人にとっての善を語れ

細部を分け入っていったのに「善」という大きな概念に突き当たってしまいがっかりしましたが、もうすこしだけがんばってみます。アリストテレスは善を次のように分類しています。
『「善」「よい」(アガトン)というのに二通りある。つまり、無条件的な意味におけるものと、何びとかにとってという相対的な意味におけるものとがそれである。(1152b)』

なるほど。クリントン氏の不人気の理由を掘り下げていって、共和党候補トランプ氏の人気の理由が説明されたように感じました。有権者からすれば、候補者は自分にとっての善を語ってくれればいいわけで、必ずしも絶対的な善でなくてもいいわけです。トランプ氏は世界に対するアメリカの、そしてアメリカ全体に対する一部の層の、相対的な善を強烈に語っているように思えます。

別の記事に、過去2回オバマ氏に投票したにもかかわらず今回はトランプ氏支持を決め、そのTシャツを着ているという青年の話(『トランプは本当に劣勢か?大統領選討論を見た米国民の本音』 ダイヤモンド・オンライン)がありました。オバマ氏が大統領になっても変わらない、むしろ人種対立が激しくなっていく世の中にあって『トランプの恐れを知らないような本音の言動の数々に次第に惹かれていった』といいます。彼個人にとっては、変化を期待させてくれる人のほうが善だということでしょう。

そのような支持者からみれば、クリントン氏は「自分にとって善い人」かどうかがわかりづらいので『私に対して話していない』と感じるのでしょう。ではクリントン氏もターゲット層を決め、トランプ氏をまねて特定の人にとっての善人たらんとして話していくべきなのでしょうか。

そして、自分にとっての善も

冒頭の記事を読むかぎり、少なくともクリントン氏はある重要な一人の人にとっての相対的な善を率直に語っていない(か、語っていても届いていない)ように思われます。それは氏自身です。『彼女自身がどういう人間で、何に心を振るわせるのか。そういう生身の姿が見えない』という指摘は、個人としての善悪・美醜・真偽の基準をもっとよく知りたいという声だと感じました。