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コンセプトノート

171. 「成功法則」は存在するのか

自分の(あるいは社会の)将来というものは、どれほど予測可能なのか。先日読んだ『偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章』に示唆的な文章があったので、それを紹介しながら考えてみます。

決定論的、あるいは確率論的なランダムさ

いま、全くランダムに見える0と1の数字の並びがあるとします。全くランダムに見えるのですが、もしかしたら、何らかの規則が隠れているかもしれない。もし規則があるのなら、目の前の数列から、その後に続く数列が予測できることになります。これを決定論的なモデルと呼びます。

一方の端には、アルゴリズムにしたがって機械的に生成された数列がある。事情をよく知らない観測者にとってはランダムに見えることもあるが(決定論的カオスではそのようなことが起こる)、この数列のあらわす世界は完全に決定論的であり、過去から未来を予測することが原理的には可能である。(p92)

あるいは、まったく何の規則もない(これを数学的に定義することは難しく、またそのような数列を生成することも難しい)かもしれない。

 もう一方の端には、不条理な数列がある。その世界には意味というものがなく、規則のないことが唯一の規則であり、どんなに過去をさぐっても未来への手がかりはまったくつかめない。(p92)

我々の将来に対する思いは、上記の2種類のモデルの中間 ―過去から現在にいたる道筋を敷衍して将来を見据えれば、何かが見えるはずだという決定論への期待と、先のことなど分かるはずがないという諦めの間― のどこかに位置しています。

しかし、世界が完全に不条理だとしても、将来を予測する術がないわけではありません。完全に不条理な数列は確率論的な意味でランダムであり、統計的に予測できるのです。
過去の数列をどんなに調べても、次の数字が0か1かは予測できない。しかし1の出る確率ならば、正確に予測できる。次の数字のみならず、次の100個の数字の中に1がいくつ含まれるかも。

 ところが何と驚いたことに、そこに別の合理性が出現する。決定論的な規則をいっさい受けつけないこの世界が、確率論的な計算にはおとなしくしたがうのである。個々のくじ引きの結果は決して予測できないようにつくられているこれらの不条理な数列が、統計学的な予測には道を開いているのだ。

特別目新しい話ではありません。「わたし個人」は明日死ぬかもしれないし100歳を超えて生きながらえるかもしれませんが、平均余命表によれば、「わたしの年代の男性」は、あと40年強生きることになっています。

たとえ微視的レベルでは不確実で独立な出来事でも、たくさん集めて巨視的なレベルで眺めれば、統計学を用いることで結果をほぼ確実に予測できる。だからわたしたちにとっては決定論が経験的事実となるのだ。(p93)

「成功法則」のトリック

上記の視点で、いわゆる「儲けのルール」や「成功法則」と呼ばれるものを見るとき、大きく3つのタイプがあることに気がつきます。

1. 決定論的な主張。つまり、誰にでも確実に適用される、隠れたルールを発見したとするもの。
2. 確率論的な計算を決定論的な規則に見せかけたもの。つまり、確率についての話に過ぎないのに、誰にでも確実に適用されるルールであるかのように説明するもの。
3. 確率論的な計算を確率の話として説明するもの。つまり、経験的事実としてのルールを紹介する(が、それ以上踏み込まない)もの。

1は魅力ある主張ですが、まず眉につばをつけて聞くべきでしょう。個人的な処世術として、「そんなものはない」と考えています。
2は勘違いか、ごまかしです。

3、「誠実な」成功法則としては、たとえば下記はどうでしょうか。

 たとえば、新しく設立されたバイオテクノロジー企業がインク500に掲載される確率は新規開業のレストランより二六五倍も高く、ソフトウェア企業にいたってはホテルに比べて八二三倍も高い。要するに、平均的な起業家によるベンチャー企業が、急成長の非上場企業や新規上場企業に育つ確率は、産業によって大きな差があることを示している。

『プロフェッショナル・アントレプレナー 成長するビジネスチャンスの探求と事業の創造』(p32)

これは単に統計であり、レストランやホテルで起業してはいけないということではありません。しかしこの数値の差を事前に知ったうえで起業を考えるならば、生き残るレストランの条件をより深く調べ、確率の高い状況に自らを置くことはできます。