知の巨人の奇行
神経科学者のクリストフ・コッホは、著書『意識をめぐる冒険』で、半ページを費やして共同研究者だったフランシス・クリックの知性を絶賛しています。クリックはDNAの二重らせん構造の発見でノーベル賞を受賞した科学者。コッホよりも40歳年上でした。
『フランシスはまさに知の巨人であり、私が出会った人物のなかで、最も合理的な深い思考をおこなうことのできる人だった。(略)フランシスのことを、まるで「知の原子炉」だと喩えたのはオリバー・サックスだ。』p40
(引用者注:オリバー・サックスは『レナードの朝』など多くの一般向け著作で知られる神経学者)
同書の終盤では、その「知の巨人」クリックが勤めていた大学を辞職したときのエピソードが紹介されています。すこし長いのですがとても印象的なので丸ごと引用します。
一九六一年に、奉職する大学の構内に礼拝堂を立てるという計画に抗議して、フランシスはケンブリッジ大学チャーチル・カレッジを辞職した。科学、数学、工学を重視する現代の大学に宗教の居場所はないというのがフランシスの持論だった。フランシスを説得しようとして、カレッジの創設者であるウィンストン・チャーチル卿は、礼拝堂の建設にかかる費用は私人の寄付によるものであり、完成後の施設で礼拝を強制されるものはいないと指摘した。フランシスはチャーチル宛の返事に、大学付属の売春宿の建築のための基金の設立を提案した。誰に対しても強制的なサービスを提供せず、サービスを受ける人の宗教も問わない、という施設を建設しようという提案だ。手紙には丁寧にも、基金創設の頭金として十ギニー(二千円)を入れておいた。この一件の後、二人の間に手紙が往復することはなかったことは言うまでもない。(p316)
ウィンストン・チャーチル卿といえば、第二次世界大戦を戦ったイギリスの首相。そのチャーチルに対してこの行動です。「知の巨人にしては、なんとも器が小さいな!」というのが最初の感想でした。
すこし調べてみると、当時クリックは45歳。氏はすでに高名な研究者で、この翌年にはノーベル賞を受賞します。またチャーチル・カレッジからは名誉フェローとして遇されており、ここが唯一の勤務先ではなかったようです(Wikipediaの記述から推測していますが、もしかしたら違っているかも)。つまり、ケンカを売りやすい状況だったと思われます。さらに、名誉フェローを受諾したのは前年の1960年で、その理由が「礼拝堂がないから」だったとのこと。宗教に否定的だったクリックにとっては重要な判断基準だったようです。そこまで背景がつかめると、氏の憤慨ももっともと思えます。
とはいえ、慰留の説得に対して売春宿の建設を提案したりその頭金と称して小銭を送ったりしても、自分の憤慨を相手に伝染させるだけです。「大学に宗教の居場所はない」という持論を個人のものとして貫きたければ、黙って職を辞することもできたでしょう。その持論が社会に受け入れられるべきと思うならば、チャーチルがクリックにそうしたように、クリックはチャーチルに説得を試みることもできたはずです。実際にはそうしたかもしれませんが、この断片的な情報だけからは、自己満足的な行動だったという印象は変わりません。
では、何ができ得たのか
もちろん、後知恵で考えれば何とでも言える話です。わたしも、ユーモアのつもりで言ったりやったりしたことが、単に失礼なことだったと後から気づいたりします。そこで人物評論は止めにして、自分が同じ状況に陥ったら何ができそうかを考えてみました。
礼拝堂が建つなら自分は辞める。これは決めたとします。そのうえで、カレッジの創設者に礼拝堂の建設を思いとどまってもらうために何ができるかを模索しているとします。
おそらく「説得」はできないでしょう。礼拝堂の建設が止まるとすれば、創設者が
「そうか、私は間違っていた。礼拝堂は大学に置くべきでない」
と自ら思ったときだけです。
そう思うにいたる道筋があるのか。創設者でない自分にはわかりませんので、創設者に自らの決定を再点検してもらい、礼拝堂の建設を再考すべき理由を自ら見出してもらう必要があります。
では、どのように再点検を促すか。たとえば「礼拝堂を置くべきと考えるに至った経緯を聞かせてほしい」と頼み、できるだけ共感を持って相手の決断のストーリーに伴走していくことはできそうです。
たとえば、こんなリストがあります。
- 他者が見るように世界を見る
- 判断しない
- 相手の感情を理解する
- その理解を伝える
共感の4要素 – *ListFreak
私人の寄付を受け入れて礼拝堂を建てようと考えたとき、創設者は反対の声を予期したでしょう。大学の業績は礼拝堂でなく研究者が担うのに、花形研究者である自分が礼拝堂のせいで辞めるとなると、創設者は大きな葛藤を感じたはずです。
いずれにせよ、できるだけ創設者の立場で決断にいたった経緯を聞く。判断を保留し、相手の感情を理解するよう努め、理解できたことを伝える。共感的に話を聞けば相手が考えを変えるというわけではありません。もし相手が自ら決断を再考してくれるとすれば、この道筋が最善のように思えるということです。
人間関係には強い返報性が働きます。創設者からすれば、説得を試みた相手から皮肉が返ってきたら「何もわかっていない」と思い、同じようにやり返すか、コミュニケーションを断ち切るでしょう。しかし説得を試みた相手が自らの主張を脇に置いて話を聞いてくれたなら、今度は相手の立ち場で考えてあげたくなると思います。創設者としての決断の困難さに共感したうえでなお職を辞するという相手に対して、何かできることはないか。そのようなANDの姿勢で考えたとき、もしかしたらクリエイティブ・チョイスが生まれるかもしれません。