カテゴリー
コンセプトノート

229. 少しずつでも、途切れ途切れでも、続けてみる

会員の方から4年ぶりにメールをもらいました。音信不通の詫びとともに4年前のチャレンジを捨てていないことを改めて宣言する内容でした。同時にこのサイトが続いていることにも感謝をしてくださいました。

お詫びすべきはフォローアップを怠ったこちらの方です。すみませんでした。4年ぶりに連絡するというのは相当な勇気ですよね。ありがとうございます。

それはさておき、「継続している・できる」かどうかが、その人のそのことに対する本気度を測る試金石であることは間違いないでしょうね。断続的でも構いません。目標が変わっていても、目的に近づく手段が一つでない以上、それも構わない。

継続するということは、それに時間を割くということ。「時は命なり」という言葉を大げさに解釈すれば、それに命を賭け続けているわけです。結果はコントロールできませんが、何にどれだけの時間を割くか(単純に割いた時間の長さでは測れないのでエネルギーといったらいいでしょうか)は自分次第。

内村鑑三は『後世への最大遺物』で、誰でも「勇ましい高尚なる生涯」を遺すことはできると述べました。富や事業や思想は遺せなかったとしても、これは遺せる。では生涯とは何か。何にどれだけのエネルギーを費やしたかということでしょう。それが「勇ましい」「高尚なる」ものかどうかは、その生涯を見てくれた人が決めること。

「少しずつ、途切れ途切れではあったが、○○を続けた」。また大げさで恐縮ですが、墓碑にそう書いてもらえるとしたら、○○は何になるでしょうか。