脳が感じる「正しさ」
ものが上下逆さまに見えるメガネをかけても、人間は順応できる。そもそも網膜に映るのは、上下が逆さまになった世界だ。脳科学者の池谷 裕二は、われわれの認識がかなり相対的・主観的である例を挙げたうえで、このように述べています。
僕らにとって「正しい」という感覚を生み出すのは、単に「どれだけその世界に長くいたか」というだけのことなんだ。(略)そういう経験の「記憶」が正しさを決めている。(太字部分は、原著では傍点)
池谷 裕二『単純な脳、複雑な「私」』(朝日出版社、2009年)
「正しい」は「好き」の言い換えにすぎない。このタイトルは、第二章のある節の見出しです。絶対的な正しさがあるかどうかは定義のしかたによるところもありますが、少なくとも脳のどこかに絶対的な正誤の判断をくだす箇所がある、ということはない。
脳から見ると、「正しい」とは「好き」を言い換えた人工的な概念でしかない。「好き」は個人的な感情ですから、「正しい」の基準も個人的なものでしかありません。これを敷衍すると、「社会的な正しさ」もまた「社会的な好ましさ」にすぎないといえるでしょう。社会的な正しさとは人工的な産物なので、社会という互恵システムを維持するためには人為的な努力が必要ということです(※)。
「正しい」意志決定の方向性
起-動線の興味である「個人としての、よい意志決定」に引きつけて考えてみましょう。これまで「正解」などないという意味で、意図的に「よい意志決定」と書いてきていますが、この本を読んでますますその意を強くしました。今回の文脈では、「よい意志決定」とは、個人的な正しさ(好ましさ)と社会的な正しさ(好ましさ)の重ね合わされた部分で選択を重ねていくことと言えましょう。
個人的な正しさ(好ましさ)だけが大事な人は、いかなる社会にも属さずに暮らしていくことも不可能ではありません。しかしそのような自己中心的な観点から考えてみても、他者の助けを借りられれば、そのぶん個人的に好ましいことに焦点を当てられます。その個人的に好ましいことが結果として他の誰かの助けになるならば、そこには好循環が生まれます。そして実際のところ、われわれの「個人的に好ましいこと」は、他の誰かに喜んでもらったり、他の誰かと何かを一緒にやることだったりします。これは『クリエイティブ・チョイス』でも紹介した「適正な自己中心性」というキーワードにつながります。
『クリエイティブ・チョイス』では、意志決定のコンパスの向くべき先(北極星)として、Passion-Ability-Valueというフレームワークを提案しました。
個人的に正しい(好ましい)と感じるとは、それに「情熱(Passion)」を注げるということです。社会的に正しい(好ましい)ということは、つまり「価値(Value)」を認められるということです。情熱を価値に変換するのが、われわれが生かすべき「能力(Ability)」です。
(※)正誤が好悪にすぎない(脳はそのようにしか働いていない)というのは極論に思えます。たとえば「持続性があること」は絶対的な「社会的な正しさ」の基準にならないでしょうか。人間が住めなくなるほど環境を破壊することは、人類の死を意味します。生存本能に訴える持続性(サステナビリティ)という基準は「絶対に正しい」のではないでしょうか。
しかし、池谷氏が紹介する事例には、それを疑わせるものがあります。たとえば、マウスに手術をして、快感を生む部位(報酬系)を自分で刺激できるようにします。ボタン一つで最高の快感が手に入る。そうすると、文字通り寝食を忘れてボタンを押し続け、ついには餓死に至るマウスも出てくるそうです。生存本能すら、絶対的な「正しさ」の基準ではないのです。考えてみれば、人間だって主義主張や教義のために命を投げ出します。
この箇所ではもう一つ、「社会的な正しさを定義して共有することが、本当に社会を維持するために必要なのか?」という論点があります。すべての行動をルール化したり、すべての価値をお金に換算したり、あるいは完全なる競争状態であっても社会というものは維持できるのではないかという疑問に答えないと、本来は先に進めません。しかし、ここで書きたいことと離れていってしまうので触れませんでした。