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コンセプトノート

106. 夢を持とう ― 自分の夢に殺された人の話を読んで

死に至る夢

ナチスの強制収容所に3年間も入れられながら生還した精神医学者のヴィクトール・フランクルは、著書『夜と霧』で強烈なエピソードをいくつも紹介しています。

その中の一つに、解放される夢を見た同僚の話があります。

彼は2月の中頃、「3月30日にアメリカ軍がやってきて我々を解放してくれる」というお告げを夢に見て、それを強く信じていました。しかし3月になっても戦況は変わらない。彼はどんどん元気を失くしていき、3月29日に高熱を出して3月30日に意識を失い、3月31日に亡くなってしまった。そういう、強烈な逸話です。

この話は、夢(寝ている間に見る夢ではないほう)を持ち続けることの大事を教えてくれますが、同時に、自分の夢に殺されることもあるのだということにも気づかせてくれます。

夢を抱き精神の支えにすることは、それこそ生命を左右するほど重要なこと。
しかし、叶わないかもしれないその夢に、よりかかってしまうことはできません。

夢を持つならば、夢が叶わなかったときの苦しさに耐える覚悟も、共に持たなければならない。

ビジネスと個人では違う「夢の持ち方」

そう考えてみると、「夢を持つこと」と「夢を現実逃避の道具にすること」との違いが分かってくる気がします。

ビジネスでは、切り捨てるべきかどうか悩ましい事業というのが常にありますね。

いつか花を咲かせてやろうという夢を抱いて育てているのか、
それとも単に見果てぬ夢を見ているだけで、やめるにやめられないでいるのか。

その見極めには正解はありませんが、その事業が大きく育つ可能性を左右するのは、うまくいかなかったときの責任を引き受ける覚悟の有無なのかもしれません。夢が壊れるのが怖くて思考停止しているようでは、リスクを取って夢を育てることもまた出来ないでしょうから。

個人でも同じようなことは言えますが、同列には論じられません。なぜかというと、企業はなんらかの目的を持って世の中に誕生しますが、個人はそうではないからです。反抗期の子供じゃありませんが、それこそ「産んでくれと頼んでもないのに」ただ生まれてしまいました。

企業には存在目的がありますが、個人には与えられていない。目的のないところには夢もありません。だから「志を立てる」という作業が非常に重要になってくるわけですね。
「意志決定のスピードを上げるにはどうすればいいのか」という問題意識から出発した起-動線が結局こだわることになったのはまさに、志をどう立て、立て続けるかという話でもあります。

夢が持てない環境でも生き延びた人の「最終防衛線」的な発想

宗教に帰依されている方はその辺のロジックがしっかりされていて羨ましく思ったりしますが、その話はここでは措くとして、フランクルがそういう状況下で何を支えに生き延びたのかに話を戻します。

強制収容所は、生きる意味を見出せなくなった人は精神だけでなく身体も病んで死んでしまうほど苛烈な環境でした。
フランクルは、自分から人生にあれこれ期待するのではなく、「人生が出す問いにそのつどそのつど答えていく責任を担っている」と考えたそうです。

フランクルのこの考え方は、夢がまったく持てない環境でも生き延びられる、「最終防衛線」のようなものです。実際に自分がそういう絶望に追い込まれたらどうなるかは分かりませんが、こうやって生き延びた人がいることを既に知っているのですから、すこしは強くいられるでしょう。

そもそも、我々がふつう「夢」と呼んでいるものは、最初に挙げた囚人のそれのように「それが破れたら死んでしまう」ほどのものではないでしょう。そう考えると、破れるリスクを承知で夢を持ち、それを追っていけそうな気がしますし、またそうしないともったいないとも感じます。

なぜそう感じたかといえば、フランクルが「最終防衛線」に至った道筋が、夢を叶えること以上に、夢を追っているプロセスそのものに意味を見出せることの素晴らしさを教えてくれるからです。

> ミニ書評『夜と霧』
> ミニ書評『それでも人生にイエスと言う』