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コンセプトノート

035. 験(ため)すのではなく訊ねる

ミニ書評・リンク集で紹介した『「聴く」ことの力』という本のあとがきから引用します。これは著者が発達心理学の浜田澄美男さんという方から聞いた話として紹介されていたものです:

 学校では、先生が生徒にいろいろ教える。そしてそれをちゃんと覚えたかどうか験(ため)す。そう、ひとを験すのだ。験すというのは、じぶんが知っていることを他人に知っているかどうか問いただすということだ。ふつう、訊ねるというのは、じぶんが知らないことを訊ねるものである。知らないから教えてほしいと、何かを訊くのである。そこには知りたい、学びたい、教えてほしいという、他者への切なる要求や懇願がある。教える方にも、何かを伝えたいという気持ちがあって教えるものである。

 学校では、じぶんの知っていることを他人に訊くということが、まるであたりまえのことのように教師から生徒に向けてなされる。生徒への「信頼」はいつも括弧に入れられている。サスペンドの状態にある。そうして、験された生徒のほうは「訊かれた」ことに応えるのではなく、当たるか当たらないかというかたちで答えを意識する。正解なら、当たった、当たったとよろこぶのである。両者のあいだには、知りたい、伝えたいという、やみがたい気持ちはない。伝える/応えるというひととひととの関係が、験す/当てるという(「信頼」をいったん停止した)関係にすりかえられてしまっている。言ってみれば、知識が、ある鍵をもったものだけが開くことのできる所有物のように考えられ、そして教師がそれを管理する守衛や寮監のような役をしている。

 浜田さんは、だから、学校がほんとうに子どもたちに「生きるかたちに教える場」となるためには、まずこの「制度化」された学校言語の使用を教師がみずからに禁じるべきだと主張された。教師はもう、じぶんが知っていることを生徒には訊かないということである。

鷲田 清一 『「聴く」ことの力―臨床哲学試論 』(1999年)

オープン前、もう半年以上前ですが、起-動線を表現する言葉として「人生の学校」、「塾」、「道場」、世のいろいろな学びの場になぞらえようとしました。しかしどうもしっくり来ず、結局「互助会(のようなもの)」、「会」、「サイト」などと曖昧な呼び名になっています。わたしも当然ながら先生でも塾長でも師範でもないので、座りのいい言葉を探して「世話人」としています。

「学校」という単語についてわたしが何となく感じ、避けようとしていた何かがここに明解に記されていることを発見しました。

わたしから伝えたいもの、訊きたいことはそれぞれ意志決定のフレームワーク、「自分ナビ」作成プログラムというかたちでこのサイト上にあります。ただしこれはどこまでも頭と心を整理する「枠組み」に過ぎません。プログラム(の最初の一周)の終わりが起-動線のはじまりです。起-動線が自分の夢やチャレンジや不安を伝え合い、応え合える場(←ちょっとうさんくさい物言いだなあ・・・)となり、そこでわたし自身もたくさん訊ねながら学ぶ、これがわたしのチャレンジ。

※ 「自分ナビ」作成プログラムは提供を終了しています