「わからない」ことは「死ぬ」こと
先日、病院で会計を待っていたら、還暦あたりと思われる婦人と黒いパンツスーツの若い人(こちらも女性。以下若スーツさんとします)がやってきました。受付を済ませてソファに座るやいなや、ご婦人は若スーツさんに猛然とグチり始めます。大声ではないものの、静かな待合室に響き渡るには十分な大きさでした。
1時間も待たされるなんて聞いてない、どうして自分の家の近くの病院ではダメなのか、あなた方は自分の都合ばかりでこちらのことをちっとも考えてくれない、前任者はメモも取らなかった、自分は断ってもいい、困るのはあなた方でしょ……。どうやらご婦人は保険の被保険者で、何らかの事情で診断書が必要になった様子。若スーツさんは保険会社の新入社員で、前任者からご婦人の担当を引き継いだということのようです。
なぜあそこまで怒れるのだろうか、と思いつつ自宅に帰って読んだ本に、同じような状況が描写されていてびっくりしました。
空港で係員に向かって怒鳴っている人を見たことがあるだろうか? 彼らがあそこまで怒るのは、旅行につきものの不確実性がストレスになっていることが原因だ。頭を柔軟に働かせることも、怒鳴られる係員の気持ちを考えることもできずにいる。それは彼らの脳が、そういう状態になってしまっているからだ。
ボー・ロット 『脳は「ものの見方」で進化する』
過酷な環境で生存競争をしていた原始の人類にとって、危険な動物や有害な食べ物がわからないことは生死に関わる。『未来を予測できないことは、そのまま死に直結する』ことであり、『「わからない」ことは「死ぬ」ことだった』。だから、不確実性は強いストレスを生む。著者はそう述べています。
怒りは不確実性から生まれる恐怖を和らげる薬である
不確実性への恐怖が、なぜ怒りにつながるのか。本書ではこう解説されていました。
怒りはある意味で、不確実性から生まれる恐怖を和らげる薬になる。人は怒っているとき、自分は正しいと確信することができる。この感情によって、不確実な状況ではないと錯覚することができるのだ。
わが身を振り返ってみても、怒るときには自分が正しいと思っています。自分が間違っていたときでさえ、「なぜ知らせてくれなかったんだ、教えてもらえれば間違えなかった」と、自分を正当化したうえで怒ります。しかし著者が言っているのは、自分が正しくて相手が間違っているから怒るだけではなく、怒ることによって自分が正しいと信じられる、そういったメカニズムもあるということです(これはシャクターの情動二要因理論を踏まえた話だと思います)。
そして、それによって『不確実な状況ではないと錯覚することができる』。怒っても状況は変わらないけれど、怒っている間は恐怖を忘れることができる。怒りは恐怖を和らげる薬だというのは、言い得て妙な表現です。
怒りの源の怖れ、その源の不確実性を想像する
怒りの原因は不確実性だけではないと思います。ただ、自分や他人の怒りに対して、どのような不確実性がその怒りにつながっているのかを考えてみることは、自分や他人とのコミュニケーションを図るうえで有益でしょう。
そこで、件のご婦人が怖れていた不確実性を想像してみました。病院を保険会社に決められたことや、診断がいつ終わるのかわからないことは、もちろん不確実性でしょう。しかし、あれほどネチネチと(失礼)怒りを持続させていたからには、もう少し深いところでの不確実性があったのではないか。
そう考えてみると、たとえば健康に不安があったのかもしれません。自分の状態がいいタイミングで、安心できる場所で、よく知った先生から、診断を受けたかった。それなのに、そうできなかった。結果として、自分に不利な診断が下されるかもしれない。
ご婦人の言動は褒められたものではないと思います。わたしが若スーツさんだったら、やはり同じように下を向いて耐えるか受け流すかしか思いつかなかったと思います。しかし、後知恵ながらこうやって考えてみると、ご婦人の事情を想像し、その怒りの源にあるかもしれない不確実性についての仮説を探すことはできたかもしれません。それがいくつか手に入れば、多少なりとも共感を向け、問題の解決に向けてできることが探せるかもしれないと思いました。