「言外の意味」を解さないディラック
カルロ・ロヴェッリ『すごい物理学講義』(河出書房新社、2017年)に、『多くの研究者が彼のことを、アインシュタイン以後に生まれた、二十世紀最大の物理学者とみなしている』というポール・ディラックのエピソードが紹介されていました。
ある講演の席では、こんなことがあった。ディラックが発表しているとき、同業者が口を挟んできた。「わたしにはその公式は理解できない」。ディラックは、束の間の沈黙の後、何事もなかったように話を再開した。そこで、司会者がディラックに声をかけ、今の質問に答える気はないのかと問いかけた。ディラックは、心から驚いたような様子でこう返した。「質問?どの質問ですか?彼は断定しただけでしょう?」
おそらく自閉症の症状を抱えてもいたディラックは、『同僚たちが口にする言葉の「言外の意味」が理解できず、あらゆる言葉を額面どおりに受けとった』そうです。
ディラックのように考えてみる
『同業者から「理解できない」と言われたら、答える(説明する)べきだ。』
わたし(多くの皆さんもそうだと仮定して、以下「われわれ」とします)は、この流れに違和感を感じませんが、書かれていない前提が挟まっています。補うと、たとえばこうなるでしょう。
- 〈事実〉同業者は「理解できない」と言った
- 〈前提〉「理解できない」と言う人には説明するべきだ
- 〈結論〉同業者に説明するべきだ
しかし、おそらくディラックはこの前提に疑問を抱くのではないでしょうか。理解できない人が理解したがっているとは限らないし、理解したがっているからといって自分の説明を聞きたいとも限らないと。
そう考えると、前提をたとえば次のように、もう少していねいに分解すべきでしょう。
- 〈事実〉同業者は「理解できない」と言った
- 〈前提〉「理解できない」と言う人は理解したがっている
- 〈前提〉理解したがっている人は、説明を欲している
- 〈前提〉説明を欲している人には、説明するべきだ
- 〈結論〉同業者に説明するべきだ
これらの前提は、「ふつう、人はこう感じるものだ/こうするべきだ」という知識です。それを常識として共有している人同士は、深い相互理解がスムーズに図れます。
しかしそういった前提は個人や帰属する組織や文化などによって異なります。必要に応じて、上述のような分解をていねいにしてみることも、自分の「ふつう」の正体を確認するために有用でしょう。このように、言葉で論理に分解することで前提を明らかにする作業を、ディラック・テストと名づけておきます。
ディラック・テストで洞察を得る
「ふつう、こういうものだ」という常識は、便利であるがゆえに我々の怠けごころを助長することもあります。「ふつう、ここまで考えてくれるだろう」というように。ディラック・テストは、そんなときにも使えそうです。
たとえば先ほどのケースでいえば、「同業者に説明するべきだ」まではいいとして、何を説明するのか。なんとなく言えそうなことを言うのではなく、理解したという状態について考えてみることで、下記のような洞察が得られることもあるでしょう。
- 〈前提〉同業者に説明するべきだ(承前)
- 〈前提〉説明には、まず相手の現状の理解度が情報として必要だ
- 〈前提〉相手から必要な情報を得るためには、尋ねるべきだ
- 〈結論〉同業者に、現状の理解度を尋ねるべきだ
「どこまで説明するのか」についても同様です。
- 〈前提〉同業者に説明するべきだ(承前)
- 〈前提〉説明の完了は相手の理解によって測られる
- 〈前提〉相手の理解度を測るためには、尋ねるべきだ
- 〈結論〉同業者に説明したら、理解度を(再度)尋ねるべきだ
少々面倒な作業ではありますが、人の気持ちが直感的に汲めてしまう人が、もしかしたら見逃してしまうかもしれない落とし穴を、論理に長けた人はうまく埋められるかもしれません。
自分の偏りを明らかにするためにも、よくよく相手の気持ちを汲むためにも、ときどきはディラック・テストを自分に課してみたいと思います。