信頼できる専門家とは
鷲田 清一の『人生はいつもちぐはぐ』を読んでいます。図書館で借りてきたこのエッセイ集、あまりに名句・警句の密度が高いのでメモが追いつかず、買って手元に置くことにしました。
「信頼の根を養うということ」というエッセイで、著者はあるTVドラマの一場面を回想します。主人公の母親が、くじける夫や子どもたちの背中をなでながら、相手になり代わって「しんどいねえ」「くやしいねえ」とつぶやく場面です。
このドラマの放映は、2011年の下半期。東日本大震災の復旧・復興が本格化するにつれて種々の問題が噴出した時期です。著者は、政治家・官僚・工学者・事業者らがこの主人公のようにふるまっていたならば、『専門家への信頼というのもこれほど損なわれることはなかったろう』とつぶやきます。
なぜか。著者はこう続けています。
『信頼できる専門家とは、特別な能力のある人でも、じぶんたちに代わって責任をとってくれる人でもなく、だれにも答えの見えない問題を「いっしょに考えてくれる」人のことだからである。』
ハッと打たれる文章で、反射的に付せんを打ちました。こういった、読み流しを許さない定義が鷲田氏の文章の魅力です。定義好きのわたしにとっては。
「いっしょに」「考えてくれる」ということ
ただ、再読すると違和感がある文章でもあります。専門家とは専門知識によって答えをくれる人であり、「いっしょに考えてくれる」だけでは価値がないのではないでしょうか。いっしょに考えてくれる人が専門家なら、ドラマの母親だって専門家ということにならないでしょうか。
そこで「いっしょに考えてくれる」という言葉の意味合いを、すこしていねいに読みほぐしてみます。
再々読すると、「いっしょに考えてくれる」という言葉は、たんなる専門家でなく「信頼できる」専門家を形容していることに気づきます。専門家として答えられる問題に答えるだけでなく、専門家を含めて「だれにも答えの見えない問題」に対しても、力を尽くして「いっしょに考えてくれる」。そういう人が「信頼できる」専門家だと言っているのでしょう。
知っていることと知らないことをわきまえ、知らないことについては口をつぐむのが専門家のとるべき態度だという考え方もあります。問題によってはそうでしょう。しかし、それで「だれにも答えの見えない問題」が解決されるわけではありません。エッセイの文脈で言えば、復興が進むわけではありません。問題を抱えた人たちも、答えがないことはわかっています。だからこそ「代わりに」考えてくれるのではなく「いっしょに」考えてくれるという言葉が選ばれているのでしょう。
「いっしょに」だけでなく「考えてくれる」も意図を持って選択された言葉です。誰でも、ドラマの母親のように、いっしょに「感じてくれる」人にはなれます。ただしそれだけでは、やはり問題が解決されるわけではありません。専門家こそが、いっしょに「考えてくれる」人になれるのです。
自分は信頼できる専門家だろうか
『信頼できる専門家とは、だれにも答えの見えない問題を「いっしょに考えてくれる」人のことだ』。つまり、専門家への信頼は、専門的な知識をもってしても答えられないような問題に取り組む姿勢によって測られるということになります。
これは専門家にとっては厳しい定義です。しかし、答えを出せる問いならば機械から答えを引き出せる日が近づいている現代において「いっしょに考えてくれる」、すなわち「いっしょに答えを探ってくれる」人というのは、妥当な定義のように思えます。
現代の社会は、誰もが互いに専門家として頼り合うことで成り立っています。専門性と独自性が高いほど、つまり代替しづらいほど高い報酬で報われるシステムのなかで仕事をしていると言ってよいのではないでしょうか。そう考えると、その深浅や広狭はさまざまなれど、仕事をしている人は誰しも専門家です。だとすると、われわれに対する信頼も、このものさしから免れ得ません。
信頼できる専門家とは、だれにも答えの見えない問題を「いっしょに考えてくれる」人のことだ。
自分は信頼できる専門家だろうか。そう自問せずにはいられませんでした。