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コンセプトノート

524. 問題共有(Problem sharing)

ミニコンサルセッション

先日、東北地方で震災復興に取り組むNPO(1)のお手伝いをするツアーに参加してきました。屋外での草むしりの次は、カフェをお借りしての「ミニコンサルセッション」です。20名を超えるツアー参加者の大半がコンサルティングの経験者だったので、頭脳労働のお手伝いも、ということでツアーの主催者がセットしてくれた機会でした。

ミニという言葉通り、1.5時間しか使えません。そこで時間内に一定の成果を出すために課題を限定し、いま検討中のAという事業アイディアをNPOのリーダーから説明してもらいます。それをグループに分かれてブラッシュアップして発表、という進行でした。

しかし、なかなかワークに入れませんでした。ある手段を検討する以上は目的をよく理解したいと誰でも思うでしょう。ましてや参加者は問題解決のエキスパートです。「そもそもの背景はどうなっているのか」「そもそもの目的は何か」「Bというやり方もあると思うが、なぜAなのか」など、大きな文脈の中にその事業Aを位置づけ、それが最善のやり方なのかを確認するための質問が相次ぎました。

そのうち残り時間も少なくなってきてしまったので、質疑応答には区切りをつけ、各グループは30分ほどのワークを経てアイディアを発表しました。中には、リーダーがぜひ続きを聞きたいと言うような優れたアイディアもありました。

震災を機に東北に移住してきた若きリーダーは、課題を限定すべきではなかった(もっと遠慮なく多くのデータを用意して、大きな問題をぶつければよかった)、やっぱりそこが大事だよなという気づきがたくさんあったと、謙虚にも感謝の言葉を述べてくださいました。

そして、何しろ知恵が足りない、ぜひ今後とも協力をお願いしたい、というスピーチをされ、セッションは終了しました。

解の断片ではなく、ともに解を考える人がほしい

セッション直後から、違和感というかベストを尽くせなかった感が残りました。その場では「まあ時間も限られているし、できることはやった」と自分を納得させましたが、一晩経ってみて、違和感が形になってきました。全員が、ある「枠」にはまっていたように思うのです。

セッションは「コンサルタントの専門性を活かしたソリューションの提案を」という前置きで始まりました。リーダーも「皆さんはコンサルタントと聞いています。僕はダラダラ喋りますのでよろしく……」と言って話を始めました。

この、問題の当事者(NPO)対解決者(参加者)という構図が「枠」でした。その枠にはまり、われわれはNPOリーダーを「お客様」に見立ててヒアリングを行い、「ご提案」よろしくアイディアを披露したわけです。

リーダーがほんとうに欲しかったのは、アイディアなのか。もちろんアイディアをもらえるに越したことはありません。ただ、自分が3年越しでやってきたことを1時間足らずで説明し、30分で考えてもらったアイディアです。よくて玉石混淆、下手をすれば石一色というところでしょう。玉のアイディアも、現在の状況における最適解の候補にすぎません。試して駄目だったらそれでおしまいですし、状況が変わればやはり石と化すかもしれません。

アイディアのはかなさは、リーダーもよく理解されていたように思います。その証拠に、よいアイディアを出したチームに継続的な議論を依頼していました。リーダーが求めていたのは、アイディアの断片でなく、活動に関心を寄せてくれる人とのつながりだったと思うのです。

ほんとうの手伝いとは何だったのか

もし、お手伝い=問題解決のアイディアを出す、という枠を外すことができていたら何ができ得たかと反芻していました。

どうせ1.5時間しかないのです。部分的な話を聞いて部分的な解のアイディア出しに時間をかけるなら、いっそアイディア出しから離れ、一人でも多くの参加者が
「NPOが取り組んでいる問題を深く理解(し、できれば共感)する」
ように努めてみたらどうだろう、と思えてきました。

いうなれば、問題解決(Problem solving)でなく問題共有(Problem sharing)です。
真剣に問題を聞き、質問をしながら理解しようと努めることは、それだけで支援になります。なぜなら多くの人を巻き込んでいかなければならNPOのリーダーは、問題を理解してもらう練習相手を欲しているに違いないからです。しかもこれは、草むしりのように全員が貢献できる支援です。

わたしがNPOのリーダーだったとして、何も知らない一団に対して話をすると仮定します。問題を理解してくれたうえで、何をしてもらうと嬉しいだろうかと考えてみると、次のようなことが浮かんできました。

まずは「これは取り組む意義のある問題だ」と認めてくれること。リーダーは、自分の地元でもない土地に単身移住して、24時間をそこで過ごしています。わたしであれば、ここに大きな問題があるということをまずは訴えたいし、認めてほしいと思います。この人たちは都会に帰ってしまうけれど、私がこの田舎で意義ある問題に取り組んでいることを知っている。そう思えれば、やっていることの意味を見失いそうになるようなつらいときの支えになると思いました。

次に「これは困難な問題だ」と認めてくれること。わたしであれば、「そんなのこうすればいいじゃないか」という(どうせ実効性の薄い)思いつきをもらうよりは、問題の困難さをよく理解して欲しいと思います。なぜか。問題を浅く理解し、浅く解決するアイディアを出せば、参加者はスッキリして帰ります。しかし問題を深く知れば知るほど、それは解決すべき問題として参加者の心の中に残ってくれると思うからです。

そのうちの何割かは、問題の意義と困難さを認めてくれるでしょう。その人たちの言葉であれば、「本質的な原因はこれではないか」という分析、あるいは「これを試してみたらどうか」という解決策のアイディアも、心情的に受け入れやすいですし、おそらくは内容も深いものになっているのではないでしょうか。

欲しいものはまだまだあります。わたしは図々しいので、「あなたがこの問題に取り組んでいる理由がわかる」という共感、「あなたがこの問題に取り組んでくれて嬉しい」という感謝、あるいは「これはより大きな、社会的な問題の象徴だ」という一般化の言葉なども歓迎したいです。

もし問題が深く共有されれば、きっと何人かは手を動かしたくなってくれると思います。自分の好きなことや得意なことに照らして「○○についてはお手伝いできるかも」と、声を挙げてくれたとしたら、どんなに心強いことでしょうか。

(1) 「NPO法人」ではありませんが、広義の非営利活動組織という意味でNPOと呼んでいます