ミニレビュー
タイトルは「犀の角の如くただ独り歩め」という釈迦の言葉から採られています。
釈迦の教えは宗教というよりは哲学、いやいっそ科学に近いという文章をあちこちで目にします。わたしもあれこれ拾い読みしてみて、そういう印象を持ちました。この本では両者の関係性をていねいに論じています。
本の2/3ほどは、科学の話です。科学の発展は神の視点を失ってきた、あるいは「科学が人間化されてきた」歴史であることが、物理学・生物学(進化論)・数学の三分野にわたって検証されます。
科学が人間化されるとは、(わたしの理解では)超越者の存在を仮定しなくても説明できることが増えてきたという意味です。たとえば古代の人は、星の動きの規則正しさに超越者の存在を感じたかもしれませんが、惑星運動の規則は「ケプラーの法則」(Wikipedia)で説明できます。われわれはこれを理科つまり科学の時間に習います。
しかしケプラーは神を否定していたわけではありません。著者は「ケプラーにとっては、その動きの美しさ、法則の数学的端正さこそが、神の存在証明であった」と言います。惑星をそのような規則で動かす力こそ神の御業であり、彼はそれを「太陽から出る運動霊とも呼ぶべき不思議な力が、磁力と同じように遠い空間を瞬時に伝わって個々の天体を駆動する」と考えていたそうです。
その後、惑星間に働く力は重力と呼ばれて、ニュートンによってその作用が整理されました。神が太陽から不思議な力を出していたわけではなかったものの、重力の源は分からないままです。ニュートンも、重力の源は「神」だと見ていたそうです。
ことほどさように、一神教の文明で発展してきた科学は、神が作ったルールを解明していくというパラダイムに沿って進歩してきました。神のことを “Great architect”(偉大なる建築家)と呼ぶことがあります。このままいくと、この世界には建築家はいなかったことが分かってしまう……かどうかはともかく、世の中の仕組みを「神の御業」といって思考停止せず、地道に理屈付けしてきたわけです。
2500年前、科学者と同じ態度で人間の精神という研究テーマに臨んだのが、釈迦です。著者が科学と仏教の違いをまとめている部分を引用します。
科学は物質世界の真の姿を追い求めて論理思考を繰り返すうちに神の視点を否応なく放棄させられ、気がついたら、神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる物資的世界観を作らねばならなくなっていた。一方の仏教は、同じく神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる精神的世界観を確立するために生まれてきた宗教である。
(参考)
最初期の仏教の基本特性(3つ) – *ListFreak