ミニレビュー
「心理学者であり、多くの著作によって知られるサイエンスライターが、近年めざましく発達した脳科学・認知科学の成果を踏まえて、意識や自我に関する基礎的・哲学的問題をわかりやすく解説する」(前袖)
われわれは、光の当たっている意識の世界と、その背後にある無意識の世界とがあるかのように捉えており、それを「劇場」「スポットライト」などの比喩でイメージしています。しかしどうも、そういうものではないらしい。
われわれが「私はいま意識があるか」と注意を向ければ、もちろん意識があると答えるでしょう。注意を向けること自体、意識がなければできないことです。しかし、そうでないときは?
「私はいま意識があるか」と問うていないときには、どのようなことになっているのだろうか。これを知ろうとするのは、なかの明かりがいつもついているのかどうかを見るために、冷蔵庫の扉をすばやく開けようとするのと似ている。
たしかに。するとどうなるのか。
すると、意識は壮大な錯覚だということになる。「私はいま意識があるか」、「私はいま何を意識しているか」といった問いを問うことで意識が生じてくる。問うているその瞬間に、答えがでっち上げられる。つまり、一つのいま、一つの意識の流れ、そしてそれを観察する一つの自我がすべて一緒に現れ、たちどころに消えてしまうのである。つぎに問うときには、一つの新しい自我と一つの新しい世界が遡って過去の記憶からでっち上げられる。
意識は壮大な錯覚である。なんだか驚くべき結論になってしまっています。そしてこれは、初期仏教の世界観と似ているように思います。実際この本は、「壮大な錯覚」から抜け出す方法について、瞑想の実践者の研究に期待をかける文章で締めくくられているのです。
一時期、といっても学生のころだったと思いますが、サイエンスライターにあこがれていた時期がありました。そのときのイメージでは、サイエンスライターとは本書のような本を書く人です。