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コンセプトノート

350. 論理的に正しいことだけからは、意志決定を導けない

論理的に正しいことを書くことは、内容のあることを何も言っていないことに等しい。

村上陽一郎 『論理とレトリック』(日本経済新聞 2010/7/15 夕刊)

今週、深く頷いてしまった一文です。ここだけ取り出すと奇異な感じがしますので、前段を含めて再度引用します。

 論理的に正しい言説の例は「今日は雨が降るか降らないかのどちらかである」であり、正しくない言説の例は「彼は男であって男でない」である。もちろん後者が正当な言説として意味を持つ場合もあるが、それはレトリックの領域であって、論理の世界では基本的に正しくない。

 言い換えると、論理的に正しいことを書くことは、内容のあることを何も言っていないことに等しい。

「内容のあること」を「意志決定に資すること」と言い換えてもよいと思います。確実に言えることだけを積み上げていっても、不確かな未来に向けての意志決定はできません。

このことを別の角度から説明している文章を読みました。コンピュータ内で人工生命体(エージェント)を作成し、社会的なルールを与えていくと、かなり人間社会に近い振る舞いが観察できるそうです。

 餌を確保し、子供を生み、財産を子孫に残す。この基本的な営みに対し、限られた資源が立ちはだかり、人口抑制、部族の始まり、戦争と社会現象のかなりの部分を見ることができる。これらを決定している因子は、全体の利得の安定点であり、限られた食料の再生産が限界を決めている。この安定解が複雑な行動を決めている。

福田 正治『感じる情動・学ぶ感情―感情学序説』(ナカニシヤ出版、2006年)

しかし、ルールとエージェントの数が増えるにつれ、動きが遅くなってきます。自分がいる環境を知り最適な行動を決めるために、膨大な計算が必要になってくるからです。上の本では『コンピュータ空間でのエージェントは、進化に伴って動きは鈍くなり、最後には一つ動くにも永久の時間を必要とするようになる』と書かれています。

エージェントが行動不能に陥ってしまうという話は「純粋理性の限界(感情が働かない患者の話)」を思い出させます。福田氏も、われわれがエージェントと違って素早く判断できる仕掛けとして「確率論的な情動・感情」の存在を指摘しています。曖昧ではあっても素早い判断システムを持った個体が、論理的に正しい判断を探して止まってしまっている個体を駆逐するであろうことは、想像に難くありません。

つまるところ、われわれの意志決定は情動というシグナルに多くを頼っています。われわれが「論理的に考える」というときに実際に行っているのは、情動が結論だけを教えてくれた判断の根拠を、あとから探していく作業ではないでしょうか。