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コンセプトノート

052. 選び方において賢明であれ

発想豊かな随筆の名手として知られる丸谷才一さんが、読む本の選び方についてこんなことを言っています。

 僕もよく「どうやって本を選べばいいんですか」という質問を受けることがあります。しかし、これは、読みたい本を読むしかないんですね。
 言葉の言い換えみたいだけど、問題は「どういう本を読みたくなるか」というところにあるんじゃないでしょうか。要するに「本の読みたくなり方において賢明であれ」と言うしかない。

『思考のレッスン』、丸谷才一、文春文庫

ひいきの書評家を持てとか、実践的なアドバイスもありますよ。しかしこの一文が響きました。

本の選び方を問われて、あっけらかんと『読みたい本を読むしかない』と返す。しかし『問題は「どういう本を読みたくなるか」というところにある』という洞察が加えられています。「選ぶ」という言葉の深き淵をちょっと覗かせてくれるような言葉ではありませんか。

世の中に本が無限にあるわけではないですが、人が一生に読める本の数を考えれば、まあ無限の選択肢があるといっていいでしょう。例えば図書館に行ってざっと本棚を眺め渡す。たしかに「読みたい」本とそうでない本がある。

その「読みたい」はどこから来ているのでしょうか。

理詰めで考えれば、こんな本が読みたいと思っている自分、すなわち「読みたい自分」が掴まえられた時点ですでに、「どんな本を選ぶか」という答えは出ているはずです。「どうやって本を選ぶか」はその先にある技術論に過ぎない。

ところが人は、大なり小なり「読みたい自分」を探すために本を読む。本を読んでいる間は考える(自分の中に答えを見出す)ことができないので、いくら読んでも満たされない。丸谷才一さんはその辺りの機微を持ち前の軽妙さでこう表現していました。

 ほら、昔から、散歩しながら考えるといい、というでしょう。あれは散歩をしているときは、本を読むわけには行かないからいいんです。アルキメデスはお風呂に入っていてあの原理を発見した。たぶん彼は風呂の中では本を読んでなかったはずです(笑)。―(中略)―とにかく本を読んでいる最中にいいことを思いつく人はめったにいない。

 もう一ぺん同じことを言いますと、いままで生きて、読んで、かつ考えてきた。そのせいで一応手持ちのカードはあるんですよ。その手持ちのカードをもう一ぺん見ましょう。

同上