攻撃不能な人物
訓練を積めば、論争の最中にあっても心の平静を保てるのか。ダライ・ラマ、ダニエル・ゴールマン『なぜ人は破壊的な感情を持つのか』にそれを確かめた実験が紹介されていました。
瞑想の訓練を積んだチベット仏教の僧侶と科学者が議論をします。テーマは、生まれ変わりなど明らかに意見が異なるもの。双方の生理機能を測定し、表情をビデオ撮影します。
比較のため、議論のスタイルが温厚な科学者と攻撃的な科学者の2人が選ばれ、僧侶はそれぞれと議論を行いました。
その結果、僧侶の生理機能が誰と話しても変わらなかったことが確認されました(「攻撃不能な人物」とは、本書でこの実験を紹介していた項の見出しです)。加えて、議論の相手に関して興味深い事実が発見されました。
それは、僧侶としばらく話をするうちに、攻撃的な科学者の感情までもが鎮まってしまったこと。彼は議論を振り返ってこう述べています。
「対決姿勢をとれなかった。返ってくるのは常に道理と笑顔。これは抗しがたいものでしたよ。わたしは何かを感じとっていた――影かオーラのような――だから攻撃的になれなかったんだな」
道理と笑顔
この「道理と笑顔」という対にハッとさせられました。
意見の異なる論点について議論をしているときに、ただ理屈を述べても角が立ちますし、ただ笑顔でいるのも間が抜けています。この両方をそろえたいもの。とはいえ、ただニコニコしながら理にかなったことを言えばいいというものでもありません。
攻撃的な相手が僧侶に感じていた「影かオーラのような」何かとは、何だったのか。本文にはそれ以上の記述がないので、想像をたくましくして考えました。
訳文ではありますが、「道理」という言葉にポイントがあるように思います。ただ理にかなっているのではなく、道理にかなっているのです。
たとえば、相手も同意できるような大きな目的に立ち戻る。
あるいは、相手の主張に興味を示す。その主張の前提となっている価値観を理解するよう努める。その価値観を否定せずに自分の意見を組み立てる。
このような共感的な態度で会話に臨むと、相手(科学者)からはどう見えるでしょうか。常に自分に歩み寄り、自分発の論理を組み立てくれるわけです。足元では一致しているのに違う主張が導かれる様子を、まるで影のように感じるのではないでしょうか。
僧侶はそれらを笑顔でやってのけるわけです。どんな心持ちの人ならばそれが可能かと考えてみたときに浮かんできたのが、次のリストです。
- 【慈】怒りを克服するためには慈しみを学びなさい。慈しみはいっさい見返りを求めることなく、他者に幸福をもたらします。
- 【悲】残酷さを克服するにはあわれみを学びなさい。あわれみはいっさいの見返りを求めることなく、他者の苦しみをとり除きます。
- 【喜】憎しみを克服するために共感する喜びを学びなさい。共感する喜びは、他者の幸福を喜び、他者の幸福や成功を望むときに生まれるもの。
- 【捨】偏見を克服するために無執着を学びなさい。無執着はすべてをひらかれた心で平等に見る力です。
四無量心(慈悲喜捨) – *ListFreak