思いつく手が、そもそも最善手
『「次の一手」はどう決まるか: 棋士の直観と脳科学』(中谷 裕教ほか、勁草書房、2018年)という本を読みました。日本将棋連盟、富士通、理化学研究所が合同で2007年に立ち上げた「将棋思考プロセス研究プロジェクト」の成果を初めとして、チェスや将棋のプレイヤーの思考過程を研究した結果が紹介されていました。面白かった知見を、つまみ食いしていきます。
まず、1940年代の実験から。チェスで、局面を見てから指し手を決めるまでの思考過程が、グランドマスター(名手)とアマチュア上級者ではどう違うのかが比べられました。
指し手を決めるために分析した局面の数は、変わらなかったそうです。それなのに、グランドマスターはアマよりも良い手を見つけられた。なぜなのか。少し長いですが引用します。
その差は直観にあった。グランドマスターは局面を見ると直観的に指し手の候補をいくつか思い浮かべるが、驚いたことに最初に思いついた手の多くが最善手であった。一方、アマチュアは良い手を直観的に見つけることは困難であった。
チェスプレーヤーは指し手の候補を直観的に絞り込んでから、その候補手に対して読みによる分析を行うことで指し手を決定する。グランドマスターの場合は候補手の中に最善手が含まれているので、候補手を分析することで最善手を選び出すことができる。しかし、アマチュアの場合は候補手の中には最善手は含まれていないので、それらの候補手をいくら分析しても最善手にたどり着くことはできない。読みを行う以前の直観の段階で、グランドマスターとアマチュアの勝負はついていたのである。(太字は引用者による)
マスターの直観を支えるのは、豊富なチャンクです。チャンクとは、少数の駒からなる『戦術や戦略と結びついた駒配置の典型的なパターン』。研究によれば『強いプレーヤーほど多くのチャンクを有しており、エキスパートの認知特性を説明するには1万個から10万個程度のチャンクが必要であると結論づけた』とのこと。著者はこの章を次のように結んでいます。
予備実験を終えた私たち研究員は棋士の将棋に関する圧倒的な能力の高さに驚きつつも、その能力の土台になっているものは将棋の駒配置のパターンに関する膨大な知識であり、パターン認識に基づいた将棋の課題を用いれば棋士の優れた認知機能を実現している脳のメカニズムを理解できるという実感を得ることができた。
ゼロ秒の直観こそが最善
さらに面白かったのは、共著者の一人による実験でした。やはりエキスパートとアマチュアに、詰将棋の問題を1秒間だけ見せて、次の一手が最初に浮かんだところでボタンを押してもらいます。その時間から盤面を読んだりボタンを押したりする時間を、対照実験によって差し引いて、正味の思考時間を測りました。
エキスパートもアマチュアも、思考時間が長かった(といっても最大で1秒程度の)問題ほど、正答率が下がっています。最初の選択肢が浮かぶまでに時間がかかればかかるほど、回答にとっては難しい問題といえるでしょう。難しい問題になるほど、最初の思いつきの正答率が下がるのはうなずけます。
アマチュアはどんなに短くても0.1秒ほどの思考時間が必要ですが、エキスパートは実質的にゼロ秒で回答を思いつける問題があり、そういった問題の正答率が最も高いのです。なんと80%。一方で、思考時間が0.8秒かかる問題の正答率は40%です。
長考どころか、思考時間が1秒近くになっただけで正答率が半減する。このことは、精度の高い直観には思考の要素は入り込まないことを意味する。
訓練を積んだパターン認識の精度の高さがうかがえる実験でした。
学ぶ、鍛える、養う
直観といえば思い出されるのが、ゲーリー・クライン『決断の法則―人はどのようにして意思決定するのか?』です。やはりエキスパートの瞬時の意思決定を扱った本書で提唱されている「認知的意思決定モデル」は、次のようなものでした(参考:『550. 「その場」での意思決定モデル』)
- 【状況判断】状況が、自分の知る「典型的なパターン」かどうかを感じ取る。違和感や矛盾を探す。よく知らない状況であればさらに情報を集め、状況を説明するストーリーを形成する。
- 【イメージ】解決策を思いつき、うまくいきそうかをイメージ(メンタル・シミュレーション)する。うまくいきそうな解決策が見つかるまで繰り返す。
- 【実行】最初に見つかった、うまくいきそうな解決策を行動に移す(時間があればその修正案を思いつき、さらにうまくいきそうかをイメージする)。
認知的意思決定モデル(RPDモデル)の3ステップ – *ListFreak
ある種のパターン認識だという点では、棋士の意思決定モデルと似ています。エキスパートは【イメージ】ステップの「解決策を思いつき」という時点で、すでに最善手を高い精度で思いついているということでしょう。
では、棋士はどのようにその直観を鍛えるのか。本書はトレーニング方法の本ではありませんが、棋士(勝又 清和氏)が担当した章に簡潔な記載がありました。勝又氏は「読み」と「大局観」を将棋の両輪だと述べたうえで、こう書いています。
将棋の鍛錬方法は昔も今も変わりません。将棋を指し、定跡書などの参考書を読み、棋譜を並べ、詰将棋を解くことです。定跡書を読み、棋譜を並べることで序盤の指し方を学び、詰将棋を解くことで読む力を鍛え、終盤の詰みに強くなります。そして実戦をこなすことで経験値を積み、「大局観」を養います。
吟味してみると、言葉が注意深く選ばれていることに気づきます。
読書で方法を「学ぶ」。訓練で読む力を「鍛える」。実戦で大局観を「養う」。何によって、何を、どう身につけるのか、3段階に凝縮されているのです。
(方法を)学ぶ、(力を)鍛える、(観を)養うという言葉の使い分けがとてもしっくりきました。
とりわけ、(観を)養うという言葉。仕事は実戦ですから、誰しもエキスパートと自任している領域では実戦をこなしているわけです。しかし、そこで意識的に「養っている」と言えるような「観」があるか。そう自問してみると、明確な答えがないことに気づかされました。
それがないようでは、直「観」も養われないでしょう。
直観の精度を高めていくために、まずは先述の引用文を自分の仕事の文脈で置き換えてみたいと思います。