カテゴリー
コンセプトノート

317. 目的を持つという息苦しさから抜け出す

何をするにも、目的を明確にせよと言われます。しかし、目的ありきのアプローチには、ある種の息苦しさがともないます。とりわけ、「人生の目的」といった大きなテーマを考えるときにそれを感じます。

この感情の源は、いろいろあると思います。たとえば、
・このさき何が起きるか、何を学ぶかも分からないのに、「とにかく目的を固定せよ」と強制されているように感じる
・「人生の目的」という言葉じたいに、「目的のない人生には価値がない」という価値観の押しつけを感じる
・べつに、目的を果たすために生きているわけじゃない!
・突き詰めていくと「死」について考えざるをえないので、恐い
・単純に、考えるのがめんどう

など。そこで『クリエイティブ・チョイス』では、目的と試行のスパイラルアップのような考え方を提案しました。もちろんこうした考えには必ず先例が見つかるものです。この本を上梓した後で出合った文章の中で、もっとも洗練されたものを紹介します。哲学者ジョン・デューイの 『哲学の改造』(岩波書店、1968年)からの引用とのこと。

「目的は,もはや到達すべき終点や限界ではない.目的というのは,現在の状況を変えていく積極的な過程にほかならないのである.究極的な完成ではなく,完成させ,成長させ,そして洗練させることを絶え間なく続けること,これが生きた目的なのである」
―村田 純一 『技術の哲学』(岩波書店、2009年)

目的を、究極のゴールではなく、変化や成長のトリガー(引き金)と見なす。この発想の転換で、気持ちが楽になる人もいるのではないでしょうか。

一方で、(わたしのように)次のような考えが心に生まれる人もいると思います。
「『成長』といっても、どの方向に、どれくらい成長すればよいのか?
『生きた目的』がめざすべきメタ目的とでもいうべきものが必要なのでは?」

目的を持てといわれると反発したくなるが、どんな目的も一時的なものに過ぎないといわれると、不安になる。そんな気持ちの根っこには、将来に対する不安があるのだと思います。だから、それを打ち消してくれるような絶対的な基準を探してしまう。

村田氏が、デューイの姿勢を解説している箇所を引用します。「ゆるがない目的」のような概念に、息苦しさを感じつつ依存したくなってしまう気持ちを、ピシリと「夢見がち」という言葉で断ち切ってくれます。もともとは技術と倫理についての文章なので、多少このノートの文脈と噛み合わないところもありますが、そこは汲み取っていただければ。

わたしたちは,不安定で不確実な状況に置かれると,その対極にある絶対的な安定性や絶対的な確実性を夢見がちになる.それに対して,(略)絶対的な安定性や確実性は形而上学的世界やユートピア的世界のなかでのみ可能であることを指摘し,そのような世界の実現を目指すことがもたらす危険性を訴え,そのような世界を目標とすることを徹底的に批判し続けたのがデューイ(略)だった.それと同時に,現実の世界では予測の不可能性や不確実性が決して解消されることがないことから目をそらさずに,この現実の世界にとどまるために必要な忍耐力と神経の強さ,そして謙虚さをもつことの必要性を主張し続けたのもデューイ(略)だったのである.
(同上)