カテゴリー
コンセプトノート

021. 汝の汝(私はあなたのあなた)

「我は汝(なんじ)の汝」という言葉、どこかで読んだことはありませんか?私はたしか伊丹十三のエッセイで読みました。日本人はいかに個が確立されていないかという話題で、日本人にとっての「自分」というのは実は自分ではなく、第二人称たる「あなた」から見た「あなた」に過ぎないのだ、これは森有正という方が以前に指摘したことだ、というものでした。

今回起-動線を立ち上げるにあたり色々な著作を読みましたが、ぽつぽつと出てくるのですね、この「汝の汝」という言葉が。日本人においては自分というものが「誰かにとってのあなた」であるというこの考えは広く受け止められているようですし、日本人以外の事情はさておき、日本で生まれ育った私にはよく当てはまる話だとも思いました。

ライフ・アーキテクチャと読んでいる緑の三つのマルでは、まず「自分を知る・伸ばす」、次に「自分を活かす」という順序になっており、「自分ナビ」作成プログラムでもその順序でシートを作っていきます。これは実は「自分」と「汝の汝」を分けて考えるための仕掛けでもあります。

それはさておき、ふと、この言葉の原典にあたっていないことに気が付きました。調べてみると森有正はたくさん本を出していて、どこに「汝の汝」が埋まっているのか分からなくて困ったのですが、困ったときのネット頼み、今回も森有正のファンらしい高橋さんという方の個人サイトを見つけて、入手しやすい著作の中で上記の考えを述べた本を教えてくださいと図々しくもお願いしました。

高橋さんが親切にもリストアップしてくださった本の中から少し引いてみましょう。

「日本人」においては、「汝」に対立するのは「我」ではないということ、対立するのもまた相手にとっての「汝」なのだ、ということである。

『大陸の影の下で』、森有正エッセー修正5、ちくま学芸文庫 より。太字は原文では傍点

そして親子を例にとって、すこし具体的に説明をしています。

子は自分の自己に忠実であることによって親に反抗するのだと思うであろう。心理的には確かにそう言うことが出来るであろう。しかしその「反抗」は、親の存在を必然的要素として含むのである。親と成人した子が真に個人として成立するならば、そこには分離と無関心とが本質的事態としてはある筈である。

同上。太字は原文では傍点

うーんなるほど、と思いました?

(フォーラムに続きあり)