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コンセプトノート

547. 最後に浮かび上がってくる「遺伝子的な何か」

生まれは育ちをとおして

生まれか育ちか。人間の思考や行動を決めるのは遺伝子なのか環境なのか。サイエンスライターのマット・リドレーは、著書『やわらかな遺伝子』で、これまでの研究や論争を俯瞰しつつ、「生まれは育ちをとおして」という主張に収斂させています(原題は”Nature via Nurture”)。

生物はまず生まれ、それから育ちますから「生まれは育ちをとおして」という言葉には矛盾があるように感じられます。この逆説的な主張を裏付けていくプロセスが本書の読みどころです。

たとえば著者は『奇妙な話だが、公平な社会にするほど、遺伝性が高くなり、遺伝子の重要性が増すことになる』と言います。遺伝子がどうあれ活躍できる社会こそ公平な社会だと思いたいところですが、なぜそのような主張が成立するのか。著者の挙げる学校の例をお読みください。

たいていの学校には、住む場所や階級や経済環境がそろった似たような生い立ちの生徒が集まっており、 生徒は一様な教育を受ける。こうして環境が及ぼす影響のばらつきを小さくした結果、学校は無意識に遺伝の役割を大きくしている。高得点の生徒と低得点の生徒との差異は、遺伝子に還元されることになる。ばらつく要因はそれしか残っていないからだ。

学習環境(生い立ち・教育内容・成果の測定)が均質化した集団においては、環境が多様であれば埋もれていたであろう小さな個人差がクローズアップされることになります。その代表格が遺伝子というわけです。

違おうとして、同じになっていく

これは社会人のわれわれには実感しやすい理屈でしょう。均質な環境で優秀だった知能の高い生徒ほど仕事でも活躍しているかというと、必ずしもそうではありません。
職務に必要な能力やその評価のされ方には大きな多様性があるので、知能の高低という一つの因子は埋もれてしまうからです(それでも知能は大きな因子には違いないでしょうが)。

知能の高い人は、知能が高いだけあって、そんなことはお見通しでそしょう。きっと、自分が活躍できる土俵をうまく創り出そうと考えるはずです。高い知能が必要な限定された職務を考案し、その仕事における能力の指標を一元化することで、知能以外の因子のばらつきをおさえればよいのです。「士業」と呼ばれる資格商売は、そういう人が考案した職業なのではないでしょうか。

同じ資格を持った人の中で自らを差別化するには、他者と同じ能力を持ったうえでプラスアルファを出さなくてはなりません。もちろん他の人も同じように考えますから、互いが違いを出そうとすればするほど違いの埋めあいも激しくなり、全体としては均質化していくような現象が起きます。結果として「○○資格を持っている人であれば誰に頼んでも同じ」ということになってしまいます。

そんな世界で何が起きるかといえば、皮肉なことに、知能以外の要素のばらつきが優劣の決め手になります。医者や弁護士のような高度に専門化された商売でも、その分野で一定の腕前であると確認できたならば、親しみやすいとか人柄がよいといった、知能や職務能力とは関係ない人格的な要素が重要になってきます。

士業を避けても、結局われわれは他者と比較されます。人事考課では同僚と比較され、セールスでは他社と比較されます。同じ組織や同じ職務の中で比較優位に立とうとすると、上述のような「均質化と小さな差異のクローズアップ現象」が働くことは避けられません。

差別化競争が高じて均質化してしまうという現象は、ビジネスでもたくさん起きています。どのビールメーカーもビール/発泡酒/第三のビール/アルコールフリーというカテゴリーを揃え、さらにビールであればプレミアム/レギュラーといったサブカテゴリーを創り出しています。これはある種の自己組織化で、誰かが命令したわけではありません。

自分の「遺伝子的な何か」は何か

結局のところ、個人としても企業としても、最後の最後は「遺伝子的な何か」、つまりその個人や企業に固有の特性のばらつきがクローズアップされてくることになります。いみじくも、企業においても創業の精神や企業内で共有している価値観は「DNA」と呼ばれます。

では、個人における「遺伝子的な何か」とは何か。平たくいえば人柄でありパーソナリティなわけです。「遺伝子的な何か」は:

  • ある種の反応パターンであり、すべての人が固有のものを備えています。
  • 容易に変えたり伸ばしたりできるものではありません。
  • 良くも悪くもにじみ出るものであり、意図して出したり隠したりできるものではありません。

せっかくですからそれが強みとなるような仕事を選び、またどのような仕事においてもそれが(結果として)強みとなるよう、自然にふるまっていきたいものです。