ストーリーでなくコマで見る
『観察 「生きる」という謎を解く鍵』を読んでいます。自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリー映画を撮り続ける想田和弘氏が、テーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老に質問をしまくっています。
冒頭近く、スマナサーラ長老は、自分の映画の見方をこう語ります。
私は分析して意味を求めますから、何を見るときでもコマで見る癖があります。ストーリーは読まないで、編集して入っているカットだけで読み取るのです。
(略)
本当は映画なんて見たくないのです。みんなは受動的に映画を見て喜ぶでしょう?(略)物語の作品を見て、「わーっ!」と喜んで、いい気分になって帰ります。でも、どんな映画も私にそうさせることは不可能です。私は能動的に見るのです。
カットをつなげてストーリーに仕立てたのが映画というものです。しかし長老は、ストーリーを読むことが事実上できないようです。なぜなら『とにかく観察して分析する癖がついている』から。それは長老にとって『呼吸と同じこと』だそうなので、ストーリーに浸ろうと思うと呼吸を止めるほどの努力が必要になるでしょう。
観察すると妄想に振り回されない
ここでいうストーリーとは、作り手がカットあるいはカットの関係に込めたメッセージであり、ときにはナレーションとして明示されます。たとえば、動物が何度かの失敗の末に獲物を捕まえた。「やっと成功しました」という声が割り込んでくる。しかし、動物が「やっと成功した」と思っているかどうかはわかりません。とすると、これは作り手が受け手にそう思わせたいというメッセージです。
またときには、受け手も自分の解釈をカットに投入します。上記のカットにナレーションがなく、作り手に特段の意図がなかったとしても、「きっと子供のために必死なんだろう」といった解釈を投入します。
虚心に聞いているつもりでも、自分のストーリーを相手の話に反映してしまう。話の流れが読めると思えば思うほど、その罠にはまってしまいます。
たとえば講義の場では、同じケーススタディについて、多い場合は年間に十数回、様々な場で議論しています。いくら一期一会、毎回初心で意見を聞こうと思っても、なかなかそうはいきません。意見をよく聞いて、素直に「~ということですよね」とまとめたつもりでも、怪訝な顔をされたり「いや、そういう意味ではなくて」と直されることがあります。再度意見をよくよく聴いて初めて、学んでほしい点に向けて誘導的に解釈していたことに気づくのです。
ここ数年でようやく、すこしずつ、会話の中でそういった解釈の介入に気づけるようになってきた気がします。しかし、たとえば時間がなくなってくるなど、浮き足立ってしまうととたんに自分の聞きたいストーリーを聞き取ってしまいます。
観察が常態となると得られるもの
長老は瞑想の訓練によって『観察しない方が苦しいと感じる』ようになっています。呼吸するように観察する癖が付いているので、映画を見ても『「わーっ!」と喜んで、いい気分になって帰』ることがない。
なんだか寂しい話のようですが、わたしにそう感じさせるのはわたしの人生観、つまりは主観です。自分の主観に操られることのない長老は、わたしが感じたことのない自由を楽しんでおられるようです。
観察しない瞬間に自分が操られているのです。ものごとが自分を管理するのです。観察するときは、自分がものごとを管理することもないし、ものごとが自分を管理することもない。(略)それが自由なんです。
都合のよい話かもしれませんが、状況を選んで観察者になれないものかと思います。必要なときに眼鏡をかけて視界を良くするように。