ビジネスには勇気がだいじ
先日、ある組織の企画会議のファシリテーターを務めました。議題は新しい研修サービスの開発です。提供したいものを自由に述べ合っていくなかで「勇気って大事だよね」という言葉が出てきました。ビジネスで成果を出していくには勇気が必要だというのです。
勇気、といったんはホワイトボードに書き留めたものの、場から次々と湧きだす新しいアイディアに埋もれていき、やがて消してしまいました。
しかし、わたしの心には残りました。「その通り!」と思ったからです。以前に「勇気というスキル(1) (2)」というノートを書き、後に書籍にも収録しました。
ただ、勇気という概念は幅が広すぎ、また奥も深すぎるので、そのあと探求を怠けていました。今回のことをきっかけにまた少し学んでみようと思い、パウル・ティリッヒ『生きる勇気』を手にしました。ティリッヒはドイツ生まれの神学者・哲学者。ナチスの迫害を受け、後半生はアメリカで過ごしています。
生きる勇気
本書は6章立て。論理的に構成されているので、目次を引用すれば内容もかなり説明しやすくなります。
- 第1章 存在と勇気
- 第2章 存在と無と不安
- 第3章 病的不安と生命力と勇気
- 第4章 勇気と参与―全体の部分として生きる勇気
- 第5章 勇気と個人化―個人として生きる勇気
- 第6章 勇気と超越―肯定されている自己を肯定する勇気
第1章は勇気の歴史と論じる対象の定義。第2章はわれわれに勇気を必要とさせる「不安」の定義。わたしがティリッヒの名前を知ったのは、何かの機会に彼が不安を「死・罪・無意味」の3つ組として定義しているという文章を読んだからです。本書の内容を元にまとめ直したバージョンをお目にかけましょう。
- 【死】無は、人間存在の存在的自己肯定をば、相対的には運命という仕方において、絶対的には死という仕方において、脅かす。
- 【無意味性】無は、人間存在の精神的自己肯定をば、相対的には空虚さという仕方において、絶対的には無意味精神性という仕方において、脅かす。
- 【断罪】無は、人間存在の倫理的自己肯定をば、相対的には罪責という仕方において、絶対的には断罪という仕方において、脅かす。
不安の三類型(ティリッヒ) – *ListFreak
第3章は身体的な不安と勇気について。後半戦は哲学的な不安と勇気について論じていくので、その前の地ならしといった位置づけでしょうか。
後半の3章が、いわば本論です。まずは第4章「全体の部分として生きる勇気」と第5章「個人として生きる勇気」。全体と個というのは存在論によく出てくるの枠組みのようです。ちなみに本書の原題は”The Courage to Be”で、直訳すれば「存在する勇気」。ティリッヒはこう述べています。
存在論的諸原理は、存在そのものにおける基礎的な両極構造つまり自己と世界という両極構造に対応して、やはり両極的性格をもっている。その最初にあらわれる両極性は、個別化(individualization)と参与(participation)である。
詳細な内容の吟味は割愛しますが、このフレームワークだけでもいろいろ考える肴になります。
勇気というと、なんとなく「個人として生きる勇気」が重要に感じられますが、「全体の部分として生きる勇気」も実は重要です。たとえば結婚する人は、夫婦という全体の夫(妻)という部分として生きるという勇気を奮うわけです。
結婚であれば、しないという選択もあります。就職(組織という全体の従業員という部分として生きること)も、避けようと思えば避けられます。それでも、ほとんどの人はある家族の子として、ある国の国民として、全体の部分です。さらに「全体」の定義を人間社会の外に広げてしまえば、「全体の部分として生きる」ことから逃れられる人はいません。
そうだとしても、勇気がつねに必要でしょうか。たとえば「自分は伴侶に従うので不安もない、だから勇気も要らない」という人がいたら?勝手に著者の代弁をするならば、100%の「参与」は自己がなくなってしまうので「個別化」がそれを許さない(それが上述の「自己と世界という両極構造」の意味である)という回答になると思います。第5章終盤の文章を引用します:
以上の二章は、全体の部分として生きる勇気および個人として生きる勇気をとり扱ったが、そこで示されたことは、前者のラディカルな形態は、全体主義における自己の喪失という結果をもたらし、後者のラディカルな形態は、実存主義における世界の喪失という結果をもたらすと言うことであった。
となると、第6章が気になります。著者は上記に続けてこのような問いを立てています。
この二つの形態の生きる勇気を超克することによってその両者を結び合わせるような生きる勇気はあるだろうか
きたぞ弁証法!という感じですね。もちろん答えは「ある」です。
受容を受容する
第6章は要約がとても難しく、引用に適した文章を探すのが一苦労でした。まず、著者は神学者なので、信仰と勇気の関係を追求しています。先述の両極構造から逃れようとして、超越的な存在を仮定してそれに頼るような有神論では結局ダメだし、そのダメさを批判するだけの無神論もダメと斬って捨てます(なぜどのようにダメかは割愛)。そして「われわれが分析によって到達した最高の頂点」と呼ぶ文章がこちら:
これらすべての形態における有神論は、われわれが〈絶対的信仰〉と名づけた経験において、超克される。絶対的信仰とは、受け容れてくれる何者かあるいは何者かをもつことなしに、受け容れられていることを受け容れることである。受け容れそして存在への勇気を与えるのは、〈存在それ自体〉(being-itself)の力なのである。
……前後の文脈なしに引用していることもあり、難解です。勇気(!)を奮って、わたしの理解を平易に書いてみます。
著者はある箇所で『〈存在〉とは、存在の否定の否定なのである』と述べていました。また複数回「それにもかかわらず」という言葉がカギカッコつきで登場します。これらが勇気のメカニズムを考えるヒントになりました。
神が受け容れてくれるからとか、原理原則に則っているからとか、根拠のある自己肯定は結局のところ否定の不安から免れられません。およそすべての根拠ある肯定は、否定されるのです。なので、それらには頼らない。著者が存在の否定の否定と呼ぶ「〈存在それ自体〉の力」をもって、「それにもかかわらず」自己が肯定・受容されていることを肯定・受容する。それが3つめの勇気です。
……と、言葉のうえでは整理をつけましたが、腑に落ちていません。その証拠に、勇気が増した気がちっともしていません。これではとても研修サービスどころではありませんが、重要なテーマなので引き続き試行しながら考えてみます。
最後に、ティリッヒが示した3つのタイプの勇気をまとめておきます。
- 【参与】全体の部分として生きる勇気 (the courage to be as a part)
- 【個別化】個人として生きる勇気 (the courage to be as oneself)
- 【超越】肯定されている自己を肯定する勇気 (the courage to accept acceptance)
勇気の3類型(ティリッヒ) – *ListFreak