成果か、ルールか
先日、感情的な対立を乗り越えるというテーマのトレーニングでファシリテーターを務めました。
その中に、人によって優先順位が違うことを知るセッションがあります。ちょっとしたアセスメントをやったりケーススタディに取り組んだりして、なぜどのように感情的な対立が生じるか、それをどう乗り越えるかを考えていきます。
優先順位の違いとは何か。トレーニングで使ったフレームワークに代えて、内田 和俊『「依存する人」を「変化を起こす人」にどう育てるか』から引用します。
- 「結果重視」と「プロセス重視」
- 「数字重視」と「人間関係重視」
- 「直観型」と「熟考型」
話が合わない人にありがちな価値観のズレ – *ListFreak
ケーススタディで描かれた対立は、このリストでは第1項目に近いもの。結果こそが重要と考える人と、プロセス(やり方やルール)を重視する人とが対立していました。
自然と、誰しも自分の志向に近い登場人物に共感します。結果志向のAさんは次のような感想を述べました。
「ビジネスは結果で測られる。仕事の分担や進め方といったルールは、よい結果を出すための内輪の決めごとに過ぎない。ルールを守って結果が出ないようでは、本末転倒だ。結果よりルールが大事という人の気持ちがわからない」
Aさんはプロセス重視派にケンカを売っていたわけでもなければ、自説に固執しようとしていたわけでもありません。「わかろうとしてもわかれなかった」ので率直に「わからない」と言っていただけなのです。
その前のセッションでは、共感こそが感情的対立を乗り越える鍵だという議論があっただけに、共感の難しさを感じる場でした。
宗教修行としての共感
共感についてもっとも優れた描写だと思うのは、英国の作家チェスタトンが創造したブラウン神父の言葉です。神父は「犯罪人の心を心とする」ことで事件の犯人を知ると述べています。簡単に言えば、犯人の気持ちになりきるわけです。
この手法を採る神父にとっての難事件とは、神父がもっとも共感しづらい動機にもとづく事件。神父の言葉でいえば「俗な気持ち」にもとづく事件です。
ああいう悪党はどれもこれも低俗です。俗な気持ちの塊りだからこそ悪党になったのです。(略)それほどの俗な気持ちになりきるには、ずいぶんと想像力を酷使しなくてはなりません。つまらぬ小さな物をあれほど真剣にほしがる気持ちは、なみ大抵のことでは体得できません。
(「フランボウの秘密」より。所収『ブラウン神父の秘密』(東京創元社、1982年)
神父はこれを「宗教的な修行」と呼んでいます。
トレーニングの翌朝、宿泊先でテレビをつけたら、道路の側溝にもぐって「のぞき」をしていた犯人が捕まったという事件を報じていました。スタッフがその側溝に潜ろうとしてみたりスタジオに側溝の模型を持ち込んで事件を再現したりして、キャスターが女性の敵ですねと言って終わりになりました。女性の不安に共感する発言は数多くありましたが、犯人には誰も共感していませんでした。
神父はこうも述べています。
『凶行に及ぶ瞬間の犯人の精神状態を心に描いてみると、わたしはいつもそれがとても他人ごとには思えなかったのです。ある心理状態におかれさえしたら、わたしが自分でそれをやったかもしれない、といつも痛感したわけです』
「ある心理状態におかれさえしたら、わたしも側溝に潜ったかもしれない」と痛感できるだろうか。修行のつもりで考えてみました。
暗くて狭いところ、たとえば押し入れに隠れる楽しさや、そこから外の世界をのぞき見る楽しさはわかります。街を行き交う人々を眺めるのも好きです。ここまでは、わたしだけでなく多くの人も共感できるでしょう。でもそこから、明け方にスマートフォンを持って側溝に忍び入ろうと思えるまでには何段階もの妄想を重ねなければなりません。非倫理的・反社会的な行動に対して「自分にもそういう気持ちはある」と認めさせていくのは不快な体験で、神父の境地にはとても進めませんでした。
もし誰かが「わたしが自分でそれをやったかもしれない」と言えるまでのぞき犯の心理を自らのうちに再現し、それを彼と共有できれば「この人は自分のことをわかってくれている」と思うでしょう。そしてその人が自分とは違う道を進んでいるのを見れば、自分の選択が誤りだったと知るでしょう。改悛とはそのような行為であり、だからこそ聖職者には共感の修行が必要なのでしょう。
この作品で神父は『慈悲や謙遜は病的だと思う人もいますな』とも語っています。慈悲が病的だという言葉がいまひとつ腹に落ちていなかったのですが、今回の実験ですこしわかったように思います。
試しに共感してみる
この、「ある状態におかれたら、わたしも~かもしれない」というシミュレーションは共感力のトレーニングとして使えそうです。結果志向のAさんに「ある状態におかれたら、わたしもプロセスやルールがあったほうがいいと感じるかもしれない」と思えるような状態を想像できるかどうか、聞いてみたかったと思います。