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コンセプトノート

105. ワーク/ライフ・バランスはミクロとマクロで

ワーク/ライフ・バランス?冗談だろ!

平日は仕事の締め切りに追われながらながら子供の送り迎え。当然仕事は持ち帰り。土曜日はまとめて洗濯をしてから子供のサッカーの試合を見に行って、日曜日は不動産物件探し…。

できるビジネスパーソンでありつつ、よき夫(妻)かつよきパパ(ママ)であり続ける。ヘトヘトになっても。これが「ワーク/ライフ・バランス」なのだろうか。

今月のFASTCOMPANY誌に「ワーク/ライフ・バランス?冗談だろ!」(“Balance is Bunk!”)という記事は、このような疑問で始まっています(FASTCOMPANYは新しいビジネスやこれからのワークスタイルなどを熱心にとり上げ続けている雑誌です)。

ワーク/ライフ・バランスに対する取り組みの内容は日米で多少差がありますが、大まかにはこういう発想です。

個人は積極的に生活を楽しもうという姿勢を持とう
→そのために労働生産性を上げて自由な時間を確保しよう
 (企業はそれをサポートしよう。
 むやみに社員を長時間拘束するのは逆効果)
 →仕事の質を上げつつ人生の充実が図れるので、個人も会社もHappy

記事は、こういう考えが上手くいかないと主張しています。なぜか。

それは、生活(ライフ)の成功は「満足」で測れるのに、
仕事(ワーク)の成功は「成果」で測られるから。

いまや自分の仕事のライバルはインドや中国にいる。自分の何分の一という報酬で猛烈に働く人たちだ。そういう人たちと「成果」で競いつつ、生活に十分なエネルギーを割くことなどできない(まれにそういうことをやってのける超人はいるとしても)。
これは、何もかも(しかも完璧なものを)欲しがり続ける我々(アメリカ人)のスタイルのせいである。そういう無茶を「バランス」の名の下に追求してもうまく行くはずがない。そう主張しています。

こういう主張には反論してみたいのですが、それは改めて考えるとして、このノートでは別の思いつきを書いておきたいと思います。

「日経××」に見る人生のペース配分

たしかに、一人何役もこなしているのに、一週間の中で、あるいは一日の中で、緻密にバランスを取っていこうとするのは疲れます。下手をすると虻蜂取らずに終わります。

しかし、なぜ一人何役も同時にこなしているのでしょうか。

生涯の労働時間は約十万時間と言われています。その中に非常に多忙な時期があって、ともすると高いストレスを受ける。
一方、リタイアしてからの「第三の人生」も同じ十万時間くらいあると言われていて、こちらはヒマになるとボケてしまうから時間を使う対象(趣味や、趣味的に取り組める仕事)を持ちましょう、なんてことになっています。

一例を挙げてみましょう。
これを書いている日現在の「日経ビジネスアソシエ」(若手〜中堅サラリーマンが対象)という雑誌の特集は
「35歳までの必須スキル、35歳からの必須人間力―年齢別 行動計画(アクション・プラン) 」
です。
一方同じ出版社の、「日経マスターズ」(リタイヤ期のサラリーマンが対象)の特集は
「NPO活動で見つける後半生の仕事」
です。「実録日誌 『することが無い』という人へ 退職者が得た充実の日々」というのまで付いています。

両方の雑誌をもう少し詳しく眺めていると、だいたい社会に出て10年くらいで職業スキルを蓄積して、その後20年くらい活躍して、徐々にペースダウンをして、60歳半ばからはのんびりモードという「スタイル」を想定していることがうかがえます。

「一生」というスパンでのワーク/ライフ・バランス

もちろん、
気力・体力の充実と衰え、
子供を産める/産めないといった生物学的な制約、
35歳を過ぎて「売れる」スキルがないととたんに転職が難しくなるという(現在の)社会的な制約
などなどを考えると、上記のようなスタイルが合理的に思えますが、かといって唯一の選択というわけでもありません。

結婚する年齢の「平均」にはあまり意味がなくなっています。
そもそも結婚しないことも、以前ほど例外的な選択ではありません。
出産可能な年齢の上限も上がっています。
起業・転職へのハードルは下がり続けています。
知識労働が増えたので、体が利かなくなっても働ける場所が増えました。
労働力の主役だった若年層の人口が減ることで、スキルのある女性・高齢者が仕事に関われるチャンスが増えるとも言われています。

これらのことは、優先順位を明確にし、取るべきリスクを取れば、一週間の中での時間のやりくりというミクロなスパンではなくマクロな、すなわち一生というスパンでのワーク/ライフ・バランスをデザインする余地が広がっていることを意味しています。