悪いことは良いことよりも強い
自分が食べるものを見逃しても、すぐには死なない。しかし、
自分を食べるものを見逃したら、すぐに死ぬ。
だから動物は、恐怖・不快に対して好機・快よりも敏感に反応する。人間もその例外ではない。
ジョナサン・ハイトは、次のように述べています。
人の心というものは、良い物事に比べて、同程度に悪い物事に対して、よりすばやく、強く、持続的に反応するということが心理学者によって繰り返し見出されている。私たちの心は、脅威や侵害や失敗を発見して反応するように配線されているため、すべての物事を良く見ようとしても、単にできないのである。
ジョナサン・ハイト『しあわせ仮説』(太字は引用者による)
ハイトは、『この「ネガティビティ・バイアス」と呼ばれるこの原理は、心理学の至る所で現れる』と言い、実際にさまざまな例を示しています。面白かったものを1つ紹介すると、『ある人の性格を評価する場合において、一度の殺人を埋め合わせるためには、人命を救うような英雄的行為を25回しなければならないと見積もられている』そうです(もとの論文を調べてみると、心理学科の学生にアンケートを取ったようです)。
人は、自分に恐怖や不快を与えた人のことを容易には忘れない。人間関係を築くうえで心しておきたい事実です。
ネガティビティ・バイアスの反射
とはいえ、自分の発言や行動によって、他人に恐怖・脅威を与えたり、他人を不快にさせることが避けられないケースもあります。
誰しも、自分が予想だにしなかった理由で相手からネガティブな気持ちをぶつけられた経験があると思います。執筆・講義・講演など、一対多の状況で仕事をしている人は特に。
そのネガティビティは鏡のように反射します。つまり書き手・話し手のネガティビティ・バイアスを発動し、恐怖や怒りを与えます。不評によって「社会的に抹殺」されることもありえますから、これはこれで理由のあるバイアスといえるでしょう。
セス・ゴーディンは、自著への批評を読むことについて「一〇〇の賛辞より、一の批判が気になる」という文章を書いています。
三〇のコメントを読んで二九は肯定的でも、一つが痛いところを突いていると、自分自身と自分がやろうとしていたことに対する手ひどい侮辱だと感じるのだ。
そして、数日の間、そのネガティブな批評のことばかり考えてしまうのだ。(略)当然、評価を求めれば求めるほど、より多くの拒絶に直面するというのに。
セス・ゴーディン『「型を破る人」の時代』
ゴーディンはどう対応したか。批評を読むのを止めたそうです。世界に(すくなくとも日米で)名を知られるこの人にして、ごく少数のネガティブな批評が気になるのです。
ネガティビティ・バイアスを調整する
わたしも講義など一対多の仕事があります。その最中では『十の頭が頷いてくれても、一つの口があくびをすれば、注意はそちらに奪われてしまいます』と書きました(「おだやかな言葉、やさしい眼差し、おおらかな笑顔」)。事後には参加者アンケートを書いてもらいますが、やはり5点(満点)の評価が29あっても、3点の評価が1つあれば、それが気になってしまいます。
ハイトの言葉を借りれば、人はそのように「配線」されているわけですから、そういう感情が生じることは受け入れざるをえません。誰かのネガティビティによって生じるネガティビティをかわしたり乗り切ったりするために、個人的にやっていることをまとめておきます。
1. 盾を持つ(準備をする)
不意打ちは感情の動きを大きくし、制御がそれだけ難しくなります。これからの講義で誰かのネガティビティを発動させてしまうかもしれない、これから読むアンケートにひどいことが書いてあるかもしれない、と覚悟をすることで、不意打ちを避けられます。小さなネガティビティを盾にして大きなネガティビティを避けるという感じでしょうか。
2. ネガティブな声のボリュームを下げる
認知療法的なアプローチです。ネガティブな気持ちが自分を大きく速く支配するのは頭ではわかっているので、否定的な批評は1/30であってそれ以上でも以下でもないという客観的な状態を確認します。
3. 薬を持つ(よりどころを持つ)
積極的にポジティブな反応を受け取りに行きます。講義であれば、頷き上手・聞き上手な参加者に多めに視線を移します(どうしてもネガティブな雰囲気の人に注意を持っていかれがちなので、これによって結果的にボリュームも下がるはずです)。実際にはやっていませんが、アンケートであればほめ言葉だけ2回読むくらいがよいのかもしれません。
4. 回復のための時間を見込む
講義の直前に前回講義のアンケートを受け取ることがありますが、原則として読まないようにしています。もしひどく否定的なコメントがあったら、それがどんなに理不尽な内容であったとしても、穏やかな心を取り戻して講義に臨めるとは思えないからです。