人はわかりあえない
あるとき、奥さんが旦那に買い物を頼んだ。旦那は買い物を頼まれて帰ってきて、頼まれた物を渡して自分の部屋に戻ろうとしたら、奥さんが「あなた、お釣りは?」と聞いたらしいのです。旦那は後から、なんであんなに自分が怒ってしまったかわからないと言っていたのですが、その一言で逆上してしまって、二十何年来、非常に仲良く、良い夫婦として連れ添ってきた奥さんを、罵倒してメチャクチャ言ったらしいのです。それがあまりにもひどかったので、今度は逆に奥さんが旦那に非常に不信感を持ってしまった。
松本 元、松沢 哲郎『 脳型コンピュータとチンパンジー学』(ジャストシステム、1997年)
脳機能の研究で著名な松本元博士が、複数の著書で紹介しているエピソードです。
旦那に何が起きたのか。カウンセリングの結果、小学校三年生のときに買い物のお釣りをネコババしたことを思い出したそうです。返さなければと何度も思いつつ、とうとうできないまま、いつしか忘れてしまいました。といっても、記憶から消されたわけではなく、自分に対する嫌悪感と「お釣り」とが連想記憶として刻まれています。
そのような事情であれば、何が起きたかは推測できます。博士は次のように解説しています。
脳がこのような内部記憶を作っていて、この記憶を形成した状況に近い状況で「お釣り」という言葉を聞くとその言葉で昔の記憶が引き出されてきます。奥さんは単に「お釣りはどうしたの?」と言ったにもかかわらず、内側から出てくるのは自分は嫌な男だという感情も同時ですから、「あなたは嫌な人ね」と言われたのと同じことになってしまった。
(同上)
このエピソードは劇的ではありますが、珍しいものではありません。その証拠に、地雷を踏む・逆鱗に触れる・ボタンを押すなど、言葉や行為が意図せざる反応を呼び起こす言葉がたくさんあります。
博士はこう述べています。
『脳研究の立場から、言葉や行為それ自身に意味はなく、それは脳から意味を引き出すための検索情報として使われるもの、といえます。』
わかりあえないところから、何ができるか
言葉は検索キーにすぎず、脳の意味データベースから引き出される内容は人それぞれ。それを前提として、コミュニケーションの質をすこしでも高めるために何ができるかを考えてみます。
1. 観察する
冒頭のエピソードのような行き違いは、防ぎようがありません。夫も、自分が「お釣り」で爆発するとは思っていなかったわけですから。ただ、ここまで突発的な反応はまれで、感情は段階的にエスカレートするのが普通です。そうであれば、夫にも妻にもそれを観察し、対処する余地があります。
夫は、お釣りという言葉から引き出される意味の一部を、(自分に対する嫌悪という)情動のかたちで受け取ります。情動は生理的反応ですから自覚できます。また表情などの変化を伴うので、妻からもある程度は観察できます。そのような感情が生じたことをつかまえられれば、たとえば次の項で書くように、言葉を尽くすなどの対処ができます。
自分の観察も他者の観察も、それなりに注意を向けていなければなりませんし、人によって能力の高低があります。感情の観察に優れた人は、自分の意に反して相手がムッとしたとか、冗談のつもりで言ったのに笑ってもらえなかったとか、ちょっとこわばった感じがしたとか、小さな手がかりを見逃しません。
2. 言葉を尽くす
観察したうえで、もし自分が伝えたい意味合いが伝わっていないようであれば、他の言葉に言い換えたり、言葉を補足することができます。受け手もまた、自分の理解を自分の言葉で表現し直すことで、誤解の余地を減らせます。
言葉を尽くすのがうまい人は語彙が豊富でたとえ話が上手です。以前にも書きましたが、最古の仏教書の一つで、釈迦の言葉が比較的よく残るとされている『スッタニパータ』を読むと、蛇の毒や脱皮、あるいは犀の角など、たとえ話の多いことに気づかされます。
3. 無記化する(妄想しない)
善悪の価値判断を取りのぞいて言葉を受け取るという意味です( 「無記(善くも悪くもない)」)。夫はおそらく「あなた、お釣りは?」と言われたとき、同時に(ネコババしてないでしょうね)という声を聞いたのだと思います。でも実際には、お釣り(支払額が代価より高かった場合に受け取る差額)の有無を聞かれただけです。
1では言外の感情を読み取ろうと書いたので矛盾するように思われるかもしれませんが、1で書いたのは、観察によって言葉の意味を推しはかる根拠を得ようということです。本項は、根拠のない妄想をしないようにしようという意味で設けています。