「罪を憎んで人を憎まず」は問題解決の心得
ある問題が起き、その職務の当事者を不適格として交代させた。ところが、新任者もまた同じ問題を起こしてしまう。交代させられた人は当然やる気を失っていく。いつしかその職務は「モチベーション低下工場」と呼ばれるようになった……。
これはおそらく、ある行動の原因を個人の属性だけに求めて(帰属して)しまい、行動を起こした状況に目を向けていないために起きることです。
「罪を憎んで人を憎まず」ということわざは、こういうミスが起こりがちであることを示しています。社会心理学者はこれを「【根本的な】帰属の誤り」と命名しました(1)。人類共通の傾向なのでしょう。
『判断力―判断と意思決定のメカニズム』は「根本的な帰属の誤り」を含む、人間ならではの判断の偏り(バイアス)をこれでもかと紹介しています。そのうえで(実に500ページを過ぎた最終章で)、「バイアスは非合理なものとは限らない」と重要な指摘をしています。その例を要約しつつ引用します(2)。
根本的な帰属の誤りには、根本的な理由がある(はず)
問題の要因が状況にあるならば、状況が変われば問題も無くなります。しかし要因が相手の属性にあった場合には、人間関係を変えない限り問題からは逃れられません。そして人間関係を変えるのは、プライベートでも仕事でも、往々にして困難です。
※「罪を憎んで人を憎まず」から話を始めたので、望ましくない状況を想定していますが、逆についても同様です。状況によってたまたま「いい人」である人よりも、属性が自分にとって「いい人」を身近におく方が重要です。
そこで、ある人が自分から見て善人であるか悪人であるかを見抜くことは、人が人間社会を生きるうえで重要なポイントだったはずで、それは今でも変わっていない。そう仮定してみましょう。
さて、いま(自分にとっての)問題行動を起こした人がいるとします。上記の仮定を踏まえて、原因帰属の当たりはずれに次のような重み付けをします。
- 原因が状況によるものだった場合、それをきちんと見抜けたときのメリットを+1、間違って相手の属性のせいだと思ってしまった場合のデメリットを-1とします。
- それと比較して、原因が個人の属性から来るものだった場合を考えます。正しく見抜ければ、将来にわたる問題の発生を防ぐことにもなり、メリットは大きいはずですので、+3とします。逆に状況のせいに過ぎないと考えてしまった場合には、繰り返し起きる問題の種を抱えたことになりますので、-3とします。
このような状況では、行動の原因を常に個人の属性に帰属するという「偏った」判断が、理にかなっている状況が生まれます。たとえば、行動の要因が個人の属性であるケースは全体のわずか30%で、残りの70%は状況がもたらすものだとしましょう。
常に原因を状況に帰属させる、いわば「罪(だけ)を憎んで人を憎まず」アプローチでは、70%の確率で+1のメリットを受け取る一方で、30%の確率で-3ものダメージを受けるので、差し引きでは0.2のマイナスになってしまいます。
ところが、常に個人の属性に帰属させる、いわば「人だけを憎む」アプローチは、70%の確率で-1のデメリットを被る一方で、30%の確率で+3のメリットが得られ、差し引きでは0.2のプラスです。
もちろん今までの数字を少しいじれば、結論は違ってきます。ただ、メッセージは明らかです。人間が統計的に間違っている選択をしがちだからといって、非合理的だとは必ずしも言えないということです。
まったくランダムに間違うのではなく、つねにある一定の方向に判断が偏るならば、そこには何らかの理由があると考えるべきでしょう。われわれが人の行動の原因をその人の属性に求めてしまうという「根本的な」傾向は、その人の属性を正しく見抜くことが社会生活を営む上で「根本的に」重要だった(いまでも重要である)ことを示しているのかもしれません。
つねに複数の視点から考え、どこまでも疑う
結局、「罪を憎んで人を憎まず」は常に正しいとはいえず、かといって人だけを憎むべきともいえないという、居心地の悪い結論になってしまいました。しかし頼るべきシンプルなポリシーは無いものと覚悟して、常に別の(できれば反対の)視点から考えてみることが、判断力を高めるためには有益そうです。
『判断力』の著者スコット・プラウスは、やはり最終章でこのように述べています。
あらゆる場面に通用する万能のバイアス除去テクニックこそないが、別の観点を考慮に入れることが、しばしば判断と意思決定の質を高めることは確かだ。
「確かだ」という言葉を見ると、ホッとします。先述したように500ページも人間の判断の不確かさの証拠を見せつけられてきた後ですから、ようやく頼れる指針が与えられたと思いたくなります。
しかし同時に、500ページも疑わされ続けたがゆえに、「確か」という言葉を見ると警戒感も抱いてしまいます。著者の「確か」は本当に確かなのか?と。
実際、著者は慎重にもこのように付け加えていました。
判断と意思決定の研究には、もう一つの問題がある。めったに触れられないことだが、その意味は重大だ。つまり、
「判断と意思決定の研究は、参加者と同じようにバイアスや誤りを起こしがちな人間が行うものである」
こうした逃れようのない事実があるため、研究の結論――それもまた一連の判断と意思決定にほかならない――にも、さまざまなバイアスや誤りがつきものなのだ。
やはり残念ながら、研究者のおすすめも(完全には)あてにできません。それでもわれわれは、日々無数の意思決定をしていく必要があります。限られた時間のなかで効率よく「疑う」方法を、自分のクセに合わせて開発していかなければなりません。
たとえば、こんなリストはどうでしょうか。
- 【感情の存在に気づく】完全な合理主義者であれば、どのような意思決定をするか。自分がそうしないのは、なぜか。
- 【論理の存在に気づく】完全な温情主義者であれば、どのような意思決定をするか。自分がそうしないのは、なぜか。
- 【相手の立場に立つ】相手の立場でこの意思決定を受け止めてみる。相手にとっても最善といえる意思決定にするために、なにかを変える余地はないか。
- 【組織の外から見る】後日この意思決定を分析する評論家は、何と言うか。内部の事情を酌まない外野ならではのシンプルさで考えたら、どのような意思決定になるか。
(1) 「根本的な帰属の誤り」(Wikipedia)
(2) スコット・プラウス 『判断力―判断と意思決定のメカニズム』(マグロウヒルエデュケーション、2009年)