P.F.ドラッカー氏の『ネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまる』は一年半前(2002年5月)に刊行された本です。そのときは、ちょっと未来予測めいた、なんとなくインパクトのあるタイトルだなあと思いつつ、結局手に取りませんでした(起-動線のスタート直前で、読書どころではなかったような気もします)。
最近になって「ソサエティ」すなわち「社会」という単語をタイトルに据えられた意図を確認したくなり、じっくり読みました。
ニューエコノミーが論じられはじめた九〇年代の半ば、私は、急激に変化しつつあるのは、経済ではなく社会のほうであることに気づいた。
(略)
本書が言わんとすることは、一つひとつの組織、一人ひとりの成功と失敗にとって、経済よりも社会の変化のほうが重大な意味をもつにいたったということである。
いま読むと、「ネクスト・ソサエティ」は「ニュー・エコノミー」との対比において選ばれた言葉のように思えます。
つまりこのタイトルは
「(みんな経済の話ばかりしているけれど)本質的に変化しているのは社会なのだ」
という、カッコの部分まで含めたメッセージなのかもしれません。
ではその一員である「社会」人とは何か。 1秒以内に答えよ。
と問われれば、わたしは「独立した家計を営んでいる人」と答えるでしょう。独身であればとにかく自分で稼いでいる人が社会人、専業主婦も家計という単位で考えれば社会人、ということです。
起-動線では「自分を活かす」場所を、
1. 家庭
2. 職業社会(自分がプロフェッショナルとして稼いでいる社会)
3. その他の社会(地域・趣味・信条など「職」以外のコミュニティ)
の3つに大きく分けていますが、
なにより稼ぐことが社会で生きていく前提とすれば、
「独立した家計を営んでいる人」という定義は間違ってはいない気がします。
ここで「家計を営む」という言葉を
「仕事をしてお金を稼ぐ」と考えてしまうと、
社会人とは「経済人」だということになります。
しかし「経済人」では明らかに自分の一部しか表現できていません。
仕事に求めている社会的な意味合いが抜け落ちてしまうのです。
ドラッカー氏の本はいつもながら深いなあと思いつつ、昨日、田坂広志さんの『これから働き方はどう変わるのか―すべての人々が「社会起業家」となる時代』を読みました。上記のような問いに対する強い示唆を含んだ本でした。
この本にも「社会」の字があります。仕事の「経済的側面以外の」目的と報酬について、平易な文章でまとめてくださっています。
まさに
「ネクスト・ソサエティにおける社会人の心構え」
が説かれている、と感じました。
それは、敢えて一行で要約するならば、
目の前の仕事と「社会」とのつながりを強く感じ続けること
です。田坂節を一節だけ引用しましょう。
自分の仕事を、「給料と引き換えに会社に命じられた仕事」と思い、
自分自身を「労働者」と見るか。
それとも、自分の仕事の彼方に、たしかな「社会貢献」を見つめ、
自分自身を「社会起業家」として見つめるか。そのわずかな視点の転換が、
我々の働き方を大きく変えるのです。
さて、再度
「社会」人とは何か。 1秒以内に答えよ。
と問われたら、なんと答えるか。
「独立した家計を営んで、社会に参加している人」
にしようと思います。
「社会に参加している」という、言わずもがなの言葉が加わっただけじゃないか!
と言われると恥ずかしいのですが、こう書くことで、自分と家族と社会とのつながりがより明確に感じられるように思うのです。
もっと良い定義を考えついたら、またこのノートでご報告しましょう。