頭脳明晰。あこがれますよね。辞書的に言えば、考えが「明らかではっきりしていること」(広辞苑)です。
といっても「俺の味方でないヤツは全員敵だ」みたいな単純な二分法的思考は、明晰な思考とは言われません。当サイトのテーマである意志決定に関していえば、あいまいなことも含めて多くの要素を考えに入れ、なおかつ自分の決断に至るプロセスをはっきり示せる人を見るとき、われわれは「ああ、このひとは明晰な人だ」と感じるのではないでしょうか。
すこしまえから、こういった「明晰さ」はどういう力から成り立っているのかを考えていました。いきなり明晰になろうと思ってもできない相談なので、要素分解してとっかかりをつかみたいと思ったからです。
深いテーマなので決定版とはいきませんが、今回は私案をお目にかけます。
1. 覚醒していること
まずは「目が覚めている」「意識がはっきりしている」こと。スピリチュアルな意味合いではありません。
覚醒度がゼロということは「寝ている」状態ですから、明晰さの第1条件に「起きている」を持ってくるのは妥当でしょう。
実際、思考は感情に影響を受けることが確かめられています。そして感情の状態を測定するためによく使われるのが、覚醒度の高低(興奮−鎮静)と快適度の高低(快−不快)の組み合わせなのです。つまり覚醒度は思考と関係があるのです。
関係があるといっても、一概に覚醒度が高い方がよいというわけではありません。高すぎて興奮状態となっては明晰さも損なわれるでしょうし、問題の性質によっては覚醒度が低いほうが成績がよい(例:創造的なアイディアは、リラックスした気分の方がよい結果に結びつく)という研究もあります。
2. [情]感情の調整ができること
もし先に書いたように「思考は感情に影響を受ける」ならば、自分の感情を動かすことで思考の質を高められ得ます。
ここを突き詰めたのが、いわゆるEI理論(EQ理論)です。イェール大学のピーター・サロベイ教授らは、感情の鋭い変化(心理学的には「情動」)を意思決定の情報として扱うことや、自分の感情を課題の性質に合わせて変化させることなどを一連の知能として定義しています。この具体例については次の項で説明します。
3. [知]論理的推論がたしかであること
「明晰さ」といえば、一般にはこのステップの能力と同義語のように思えます。それだけにここにはいろいろな要素が入ると思いますが、まずは「注意を向けること」を挙げたいと思います。注意は3つの軸で整理できるように思います。
一つめは注意の深さ。考えるために、その対象に思考のスポットライトを当てる、できればレーザービームのように焦点を絞り込んで考える、ということです。
二つめは注意の幅。何かを見つめながら視界の端の動きにも気がつくことができるように、思考の焦点の外側の変化に気づいたり、そこからの発見を対象と結びつける発想力などが含まれます。
三つめは注意の長さ。そういった状態を継続させる力という事です。
ちなみに、われわれを特定の対象に注意を向けさせるはたらきを担っているのが、先述の「感情」です。「驚いた → よく調べてみよう」「不安だな… → しっかりチェックしよう」「面白い! → もう一度やろう」という具合に、特定の感情は特定の思考を促します。
次に「記憶」がよいこと。推論は短期的にも長期的にも記憶から材料を引き出してきて行われます。そして記憶もまた、それが起きた時点での情動や、それを思い出すときの気分に、左右されます。
最後に、まとめて「論理力」と読んでしまいますが、「感情」の力を借りて「注意」を対象に向けたうえで、「記憶」を活用して目的に対する最善の手段を選択できる力が必要です。書籍や研修で学べるシンキングスキルの部分です。
4. [意] 人格が一貫していること
われわれの実際の意志決定は、たとえ考えの道筋が「論理的」であっても、その基準を純論理的に決めることができないものばかりです。新人の採用、事業の進出・撤退の判断、転職先の決定、結婚相手の選択……。メリット/デメリットの比較表のようなものを作って定量化したとしても、そのモノサシに当事者の主観や見込みや美醜の感覚が入っています。
正誤の問題でなく善悪の問題が多いと言ってもいいかもしれません。正誤の基準は人間の頭の外にありますが、善悪の基準は内側にあります。内側の基準が毎回バラバラであったとしたら、とても明晰には見えないでしょう。多くの意志決定は、動的な、かつ小さな選択の積み重ねだからです。
そういった「内側の判断基準」を「人格」と表現しました。
……明晰ならざる頭で明晰さの定義を試みたので疲れました。とりわけ昨晩の寝不足で覚醒度が低くて……。
言い訳は置くとして、こうして要素分解して、一つひとつの要素を丹念に磨くやりかたを考えるのが、わたしが仕事でやっている成長メニュー作りの定番アプローチです。