手放すことは、悟ること
『「学習する組織」入門 ― 自分・チーム・会社が変わる 持続的成長の技術と実践』という本に、生産的で未来志向の対話のために、『オットー・シャーマーが発案しアダム・カヘンが練り上げた、話し方と聞き方の4つのレベル』というモデルが紹介されています。
- ダウンローディング(儀礼的な会話)―― 〔話〕丁寧さ・恐れ 〔聞〕予測
- ディベート(討論)―― 〔話〕意見の衝突 〔聞〕判断
- ダイアログ(内省的な対話)―― 〔話〕自己内省 〔聞〕共感的
- プレゼンシング(生成的な対話)―― 〔話〕生成的 〔聞〕自他の境界がない
「ディベート」は「ディスカッション」と置き換え可能。このモデルの背景は長く複雑ですが、言葉を眺めているだけでも、レベル感の違いはなんとなく感じられます。
レベル3からレベル4への移行のところに、こんな記述がありました。
共感的な対話であるダイアログのレベルから、生成的な対話であるプレゼンシングのレベルにシフトするにあたって、重要な動作は手放すということです。日本人には「悟る」という表現のほうがなじみ深いかもしれません。
何を手放すのか。すこし後に『自身の信念や価値観、立場・役割など、裏返せば自身が執着していることを手放す』
なるほど、執着から離れるので「悟る」ですね。
このように便利に使っている「悟る」について、せっかくの機会なのですこし考えてみます。
「わかる」と「さとる」の違い
「さとる」は特殊な「わかる」だと思われるので、両者の違いを考えるところから始めましょう。
わかる【分かる・解る・判る】―― (1)物事の意味・価値などが理解できる。(2)はっきりしなかった物事が明らかになる。知れる。(3)相手の事情などに理解・同情を示す。(4)離れる。分かれる。
さとる【悟る・覚る】―― (1)表面には表れていないことをおしはかって知る。感づく。(2)道理を知る。明らかに知る。(3)(仏教で)欲望・執着・迷いなどを去って、真理を会得する。悟りを開く。
大辞林 第三版
どちらも、最後の項目はその言葉固有の意味合いですが、それより前の項目は互いに似た意味合いを持っています。
「わかる」は、「分解する・判じる」という漢字に表れているように、全体を部分に分解して具体的に理解したり、価値を評価したりすること。
「さとる」は「悟る・覚る」ですから、自分(吾)の心(りっしんべん)で理解する、目覚めるように理解するという意味合いです。直感的・自発的・全体的な理解であり、意図して理解するというよりは理解が「訪れる」という語感があります。
理解の深さにも違いがあります。ふだん使いのレベルでも「はいはい、わかりましたよ(やればいいんでしょう)」とは言いますが「はいはい、さとりましたよ」とは言いません。他人に「わからせる」ことはできても「さとらせる」ことは(、言葉のうえでは可能でも、それが意味するようには)できません。これが真理だと信じられるような理解の自発的な訪れが必要なのです。
なお「覚悟を決める」と言いますが、「覚る・悟る」という字の意味合いからすると、覚悟というのは意図して決めるというよりは、自然に定まるもののように思えます。
「悟った人」の見分け方
こう考えを進めてきて、「わかる」と「さとる」の違いが見えてきました。
わかるは分解と判断。さとるは覚悟。「わかった」だけでなく「さとった」かを見分けるには、その理解と言動が一致しているかどうかを見ればよいでしょう。「さとった」ということは、迷いがなくなるほど深い理解と納得に達したということ。その理解に基づいた言動をする「覚悟」ができているということです。実際には、理解は外側からは見えません。しかし一定期間その言動を見ていれば、推し量れるでしょう。
仏教では身口意の三業、つまり言動と心を一致させよといいます。身口意が一致した人は上述の辞書の(3)の意味で「悟りを開いている」わけですから、「さとる」を突き詰めるとやはり「悟り」に行き着くのでしょうか。