「思いがけない」のマネジメント
先日、誕生日を迎えました。感傷がそうさせるのか、対義語好きがそうさせるのか、生まれた日にはなんとなく死を思います。
その時期に読んでいた、徳永 進『どちらであっても――臨床は反対言葉の群生地』は、まさに生と死、そして反対言葉の二つで特徴づけられる本でした。徳永氏はホスピスケアのある「野の花診療所」を鳥取に開いた内科医で、多くの著作があります。
呼気と吸気、満ちると欠けるなど23の反対言葉を見出しに取った随筆集のなかで、「〈意志〉と〈流動〉」にあった「ついうっかり」という文章が印象に残りました。
著者はあるフォーラムで、多くの死を看取っている医師として自分の死をどう考えているかと問われ、とっさに「考えていない」と答えます。次の引用はその続き。すこし長めに。
その時うまく語れなかったが、ほんとは「思うようにはならない」と言いたかった。(略)「いずれにしても、死を承知し、ホスピス病棟で皆に別れを言いたい」などと、自分の意志を述べたとする。それはそれでいい。ただし、劇や映画の脚本のようには事は運ばない。大体のことは「思い」と「思いがけない」の二つで進む。「思いがけない」が事を大きく決めていく気がする。
「思い」を脚本のように描くと、それが細かいほど「思っていたのと違う」結果になる。なぜなら常に「思いがけない」ことが介入してくるので。皮肉な真実ですね。
「思いがけない」のマネジメントについては、二つのアプローチがあると思っていました。
一つめは、「思いがけない」を減らすアプローチ。エンディング・ノートを作るのは主にこちらのアプローチでしょう。各人にとっては人生で一回しかないイベントでも、世の中では日常的なできごとなので、知識をつけ準備をすれば「思いがけない」ことは減らせます。
二つめは、「思いがけない」を受け入れるアプローチ。一つめのアプローチで最善を尽くしてもなお現れるのが「思いがけない」こと。そういう定義なのですから当然です。いつ、どんな「思いがけない」ことが現れるかはわからなくても、いつかは「思いがけない」ことが起きる。そう信じて構えておけば、なんの備えもしていなかった場合よりは、起きたことを素直に受け入れて早く対処を考えられるはずです。
「ついうっかり」と死を迎える
しかし、もしかしたら三つめ、「思わない」とでも呼ぶべきアプローチがあるのかもしれません。それを感じさせられたのは、先に引いた文章の続きに添えられていたエピソードです。
人に親しまれ、地方政治に尽力した先輩ががんの末期になって見舞った時に、ポツンと語った言葉が心に残っている。「わし、何も考えとりませんでなあ、ついうっかりしとりましてなあ」。自分の死についてどう考えているかと問われた時、「うっかり」が導いてくれる世界を受け止めていく方が、自分の意志を組み立てるよりゆったりと大らかな気がした。
ハッとさせられました。論理的思考の教材的にいえば
「思いがけない」ことが起きるという問題にどう立ち向かうか?
・まず、できるだけ起きないようにする
・それでも起きるものと受け入れ、起きても慌てないように備える
という二者択一的ロジックツリーで漏れがないように思いますが、この先輩は上記に隠された前提をおおらかに乗り越えてクリエイティブ・チョイスを発揮しているように感じます。
「思いがけない」ことが起きるのは、「思い」があるからです。「思い」を強く照らし出せば出すほど、その影である「思いがけない」ことも、くっきりと立ち現れます。ところが先輩は、死については「思い」が薄かったようです。
まあ、思っておけばよかったのだろうけれど、ほかに大事なことがあったので、ついうっかりしていた。
そんな軽やかさが、幾多の死を看取ってきた著者におおらかな印象を与えたのではないでしょうか。そう考えると、疑問がわいてきます。なぜこの人は、死という人生の一大事に「思い」を馳せずにいられたのか。
生に「思い」を込めていたから。死の準備としての生ではなく、「地方政治に尽力した」という生にすべてを「思い」入れ、それが満たされたから、「ついうっかりと」死を迎える準備ができていた。この短い文章から、そんな想像を膨らませてしまいました。