怒った群衆に囲まれて
2002年4月3日の朝、イラク中南部ナジャフにあるイスラム教シーア派の聖地で、クリス・ヒューズ中佐はむずかしい任務についていた。イラク戦争が始まって数週間が過ぎ、彼はイラクのイスラム教シーア派最高指導者のシスタニ師と連絡を取ろうとしていた。彼の率いる小さな部隊が通りを歩いているとき、急に何百人というイラク人が周囲の建物から溢れるように出てきた。拳を振り上げ、叫びながら、怒りを露わにしている。群衆に迫られているアメリカ兵は、恐怖の表情を浮かべてお互い見つめ合っている。
バリー・シュワルツ、ケネス・シャープ 『知恵』からの引用です。中佐が何をしたかは後で紹介しますので、自分が中佐ならどうするかを考えながら読んでください。
この様子はニュース番組で生中継されており、それをみた記者が中佐に電話でインタビューしています。記者は群衆の怒りを鎮める方法を誰に教わったのかと尋ねました。
中佐は、誰にも教わっていないと答えました。ヘリコプターの翼を回転させての威嚇や警告射撃は教わっていたものの、そういった手段は流血を招く結果になるだろうと考えたそうです。
著者らは、中佐の置かれた状況を次のように描写しています。
複雑で予見のできない状況下、自分が取るどんな行動や結果も想像し、競合する目的(部下を守ること、市民を傷つけないこと、シスタニ師と連絡を取ること)をすべて果たすために、決断を下さなくてはならない。この状況に備える訓練は受けたことがない。従うべきルールはない。荒野の消防士のように、ヒューズは即興で行動しなくてはならなかった。それも迅速に。
現場での意思決定
自分であればどう考えるだろうと思い、頼りになりそうな3か条を探しましたが、さすがになかなか見つかりません。「荒野の消防士」という比喩から、消防士のような専門職の決断を分析したゲーリー・クラインの『決断の法則』を思い出し、再読してみました。本書では専門家による即興の決断を調査し、その多くに共通するアプローチを「認知的意思決定モデル」として図式化しています。単純化してリストにまとめたものをお目にかけます:
- 【状況判断】状況が、自分の知る「典型的なパターン」かどうかを感じ取る。違和感や矛盾を探す。よく知らない状況であればさらに情報を集め、状況を説明するストーリーを京成する。
- 【イメージ】解決策を思いつき、うまくいきそうかをイメージ(メンタル・シミュレーション)する。うまくいきそうな解決策が見つかるまで繰り返す。
- 【実行】最初に見つかった、うまくいきそうな解決策を行動に移す(時間があればその修正案を思いつき、さらにうまくいきそうかをイメージする)。
認知的意思決定モデル(RPDモデル)の3ステップ – *ListFreak
合理的とされる意思決定のアプローチでは、解決策を並べて比較検討し、最善の策を選択します。しかし、人が現場でくだす決断はまったく違っています。思いついた策を一つずつシミュレーションし、最初の「あたり」を実行するのです。
この能力を磨くには、やはり現場経験あるいは現場さながらの訓練を積むのが最善のようです。『知恵』の著者らによれば、米国陸軍では訓練が画一化し、指揮官が自ら訓練を計画・実行・評価することがなくなった結果、「実践的な知恵」が失われてきたと述べています。冒頭のヒューズ中佐のエピソードは、貴重な例外として引用されていたのでした。
お待たせしました。引用の続きです。
ヒューズ中佐はサングラスの奥で表情一つ変えず、一歩前に出ると、ライフルを頭の上に持ち上げ、銃口を地面に向けた。「膝をつけ」と中佐は部下に命じた。それから一人、また一人と、重装備と武器に手こずりながら、怒った群衆の前に膝をついていった。イラク人は静かになった。怒りは引いていった。ヒューズは部下たちに撤退を指示した。
このときの動画が現在も見られます。中佐はほんとうに落ち着き払っており、さらには「笑顔を見せろ!」と声をかけながら、ゆっくり撤退を指示していました。