分かったけど、(使ってないから)使えない
いま講師を務めているビジネススクールのコースは3ヶ月間が単位。最後に、参加者はこれまで学んだことを振り返り、これからどう活かしていくかを文章にまとめます。同じ内容・同じ講師・同じ仲間、つまり同じ経験を共有した仲間ではありますが、持ち帰るものは人それぞれ。ここまで深い学びを引き出せる人もいるのかと感心したり、自分のファシリテーションのつたなさを反省したりと、わたしにとっても有意義で楽しみな成果物の一つです。
持ち帰るものは人それぞれと書きましたが、ごくまれには、持ち帰るものはないという人もいます。コースの内容がよく理解できなかったと感じた人ではありません。そういう人は得てして「もっとよく学びたい」と書かれます。言ってみれば「高まった学習意欲」を持ち帰ります。持ち帰るものはないという人は「内容は理解したが自分には必要ない/関係ない/すでにできている」と書かれます。たとえば学んだテーマが論理的に考えるという内容だったとすれば、「論理的な考え方は分かったが、感情が渦巻く自分の現場では通用しない」という感じです。
最近ようやく気づいたのですが、持ち帰るものはないという人は、決まって「分かったけど、現場ではできない/使えない」と書かれます。「分かったけど、現場ではできなかった/使えなかった」ではないのです。つまり、現場では試していらっしゃらないのです。せっかく多大なる時間を費やしてくれたのに、こういう気持ちでコースの終了を迎える方がいることを知るたび、目が行き届いていなかったことを恥じざるを得ません。
「分かったけど、できない/使えない」というギャップは、学び手の誰もが感じることで、実のところこのギャップを埋めることこそが、学習プロセスの大部分を占めるように思います。多くの人は「分かった」ことを現場で試すことで「分かっていたはずなのに、できなかった」という思いを抱きます。しかし同時に「だけど、こんなことが分かった」という、実践的な知恵を手に入れます。それを学習コミュニティの仲間と共有し、視野を広げます。そのようにして職場と学習コミュニティを行き来しながらギャップを埋めていきます。そして最後には、新しい知識を実践できるスキルに落とし込んで、持ち帰ります。
学習は、箱庭の拡張工事
このギャップ ― Knowing-Doing Gapなどと呼ばれます ― を埋められる人と埋められない(あるいは埋めようとしない)人の違いは、どこにあるのか。考えてみれば、わたしにも積極的にギャップを埋めたいと思って臨めるテーマとそうでないテーマがあります。その差はどこから来るのか。そんなことを考えると、いつも「箱庭」という言葉が浮かんできます。自分の世界観ということです。
自分だけの、箱庭的な真理の枠外に出てまで新しい何かを学びたくないと思う気持ちが、自分の中にもあります。自分の箱庭に収まるサイズに小さくしたり、いまの箱庭にマッチするように形を変えたうえであれば、それを受け入れるのにやぶさかではありませんが、壁を壊したり、風景を一変させるような何かを持ち込むのは、嫌なのです。
コースを通じて大きく成長される方の典型的なイメージは「箱庭のゆかいな壊し屋さん」でしょうか。自分の箱庭を壊して新しくデザインをするという、知的にも精神的にもタフな作業を、楽しげにやってしまいます。クラスルームでも職場でも、学んだばかりの知識を試してみることに躊躇がありません。そういう方の失敗談や実践から得られたコツの話はとても面白く、いつも引き込まれてしまいます。コースの内容面ではたまたま講師役を務めていますが、同じ学び手としては、教えてもらうことのほうがはるかに多いと感じています。