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コンセプトノート

095. 理想の毒

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』は、情報の入手・整理・表現のやり方を紹介している本です。現地取材の重要性について正岡子規の言葉を引きながら説明しているくだりがとても面白かったので紹介しましょう。

■理想は平凡、写生は多様

 子規は、好んで「理想」と「写生」という言葉を対比しました。
(略)
 この二つを並べた時に、正岡子規は、「理想」が月並平凡であり、「写生」は多様多彩だというのです。
 逆ではないか、と思われるかもしれません。
 イマジネーションを込めた「理想」の方が、自由奔放ではないのか、と。
 そうではない、と子規は云います。
「理想」は、一見現実の拘束を受けない自由を楽しんでいるように見えて、実は既成のイメージなり、パターンに強く拘束されているのだ、と。それは、勝手気儘なように思いながら、むしろ思っているからこそルーティーンの奴隷であり、出来合いのイメージの既成を受け、さらには凡庸さから抜け出ることができない、ゆえに「月並」なのだと。

これは作家や画家だけの話ではありませんね。

わたし達も「ビジョンをつくる」といってあれこれ考えます。しかしそのインプットは自分のアタマでしかないわけです。
何か「チャレンジ」に向かって意志固めをするときも同じです。なにぶん未経験のことですから、「期待」や「覚悟」の整理も、自分がイメージできる範囲内でやるしかない。

■写生が理想の毒を消す
ではそれをどうやって叩いていくか。著者の福田さんは情報を整理しつつ本を書くにあたって「写生」のために現場に行くといいます。

 多くの資料を集め、あるいは伝聞を重ねて、一冊の書物を書いていく。
 その行為は、ある意味で「理想」なのですね。
(略)資料に埋もれ、抽象的な情報に浸っていると、ある種の「理想」をつくり出してしまう、その弊を避けられないのです。(略)その場に立つことで、かなりの部分の「理想」の毒を消してくれるのです。
「写生」によって、現実そのものの複雑さ、多彩さと触れることができるのです。
(略)
ですから、現場に行って、あまり「情報」にこだわると、「理想」の魔手から抜けられないということになるのです。

現地に行ってやることは情報収集ではなく「写生」なのだという視点、そして「写生によって理想の毒を消す」という表現が新鮮でした。

■じゃあ考えてもしょうがない?
「だからあれこれ考えてもしょうがないんだ」となると短絡的でしょうね。

正岡子規もさんざん想像の世界で戦って「写生」を発見したのでしょう。

福田さんも事前にギュウギュウと考え詰めてから現場に出ている。仮説も目的意識も無く現場に行って「写生」してくるわけではありません。

寺山修司の「書を捨てよ 街に出よう」という言葉も似ていますね。単に「街に出よう」ではなくて、その前に「書を捨てよ」とある。ということは書を持っていたということ。相当量の書を読んだ人が言ってこそ光る言葉です。