まず短いエピソードを3つ。
1. 好みのうるさい人
「あの人は好みがうるさい」というと、だいたいは「嫌いなものが多い人」を指しています。あれもダメこれもダメというダメダメフィルターをくぐってきた、自分の眼鏡に叶うものを、それもしばしば渋々だったりしますが、受け容れる。
好きなものを選ぶのではなく、もっとも嫌い度が低いものを選ぶ。良し悪しはさておき、そういう選び方ってありますよね。
2. 「なんか違う」という判断基準
先日ランチをご一緒したAさんは、アメリカで大学を卒業していわゆる人気企業に入りました。しかし1年半で辞め、数ヶ月ボランティアをしたあと起業を試みています。普通だったら「そんなにフラフラしてどうする」と言いたくなる足取りですが、話をおうかがいしているとそうは感じないのです。
「これはなんか違うと思って・・・」といって別の可能性にアタックする、その「なんか違う」というカンの働き方が本人のパーソナリティと一致している、と言いましょうか、やみくもに美味しそうな話に飛び付いているという感じではないのです。「これがしたい!」という明確なものは見えないかわり、「これは違う!」という感度が高く、しかも一貫しています。遠回りになることはあっても、ありたい自分への道に進んでいる印象を受けました。
3. 「ありたくない自分」
イントロセミナーの感想をおうかがいしていたとき、「ありたくない自分」を書いておける場所が欲しいというリクエストがありました。「ありたい自分」と言われると難しいけれど「こうはなりたくない」というものならたくさんあるから、というのがその理由。たしかにそうかもしれない、とうなずいてしまいました。
「ありたい自分」そのものではありませんが、世の中に公開されている類似の情報としては企業理念やミッション・ステートメントなどがありますね。ああいうものは圧倒的に肯定形が多いと思いませんか。企業の価値観をストレートに書くと、肯定文になるらしい。
否定形の例は十戒。望ましい行動についてではなく、「〜するなかれ」ばかり並べてあります。
憲法は肯定文で法律は否定文、といえば言い過ぎになりますが、その精神において憲法は「こうありたい」という宣言で、法律は「しなければならないこととしてはいけないこと」を網羅したルールブックである、とは言えるのではないでしょうか。特に憲法前文なんか読むと、これは日本国の「ありたい自分」に他なりません。
あれこれ考えた末、「ありたい自分」を考えるうえで「ありたくない自分」を考えるのをエクササイズとして取り入れつつ、「ありたくない自分」シートは見送ろうかなと考えています。「なんか違う」という感覚を一歩掘り下げると、「○○を大事にしているからこそこれはNOなんだ」という肯定文が引き出せるのではないでしょうか。