『情報選択の時代』から。いわゆる偉人たちの大失敗を挙げてから、このように受けています:
ここに列挙した人たちは、失敗を理解し、失敗に耐え、ときにはあえて失敗を招こうとさえした。彼らは、ひらめきに刺激され、自信満々の状態と、ひどく不安な状態を繰り返したが、失敗を不名誉なこととは思っていなかった。彼らはこう言えたのだ。「うん。そっちはダメだった。でもこっちを見てくれ」 彼らは失敗を敗北の印ではなく、成功への序曲、あるいは認められるためのステップや途中経過と考え、大きな成果を引き出した。「繰り延べられた」成功である。彼らは失敗をしっかり受けとめ、それを仕事を進めるうえでの創造の原動力として活用した。彼らの人生は失敗の繰り返しだった。
『情報選択の時代』
「繰り延べられた」成功、という言い回しが気に入ったので引用しました。成功か失敗かの二者択一でなく、必ず何回かの失敗を経ないと成功に至らないものだ、と構えを変えてみたらどうでしょう。
・・・と書いていたら、少し先にちゃんと書いてありました。再び引用:
もし失敗を、すばらしい成功への必要な前段階と考えられるなら、成功に至るプロセス自体がもっとよく理解できるだろう。 身体をこわし、再起にかける陸上選手。設計した橋が落ちたときに再建に取り組むエンジニア。経済が崩壊したあとで再び繁栄を目指す国家。何年も実験がうまくいかない科学者。こうした人や国家が見せる熱意や決意を考えれば、成功の起源がどこにあるか理解する助けになる。
同上
もう一つだけ。私が個人的に尊敬しているバックミンスター・フラーという建築家(?インダストリアル・デザイナー?)のエピソードがありました。
R・バックミンスター・フラーは自作のジオデシックドーム(測地線に沿って直線構造材を連結して作るドーム。軽量で剛性が高い)を手がけるにあたって、とりあえずは失敗に終わるかもしれないと思われるものからはじめた。そしてそれを「少しずつ強くしていった。こっちに木を一本、そっちにまた一本追加、というふうに改良を続けた。そして、ふいにドームは完成した」
同上
フラーは、失敗を足がかりにして、じりじりと成功ににじりよっていったのだ。