まるで夢のような私
“オリヴァー・サックスの著作を彷彿とさせる”という書評に引かれて、アニル・アナンサスワーミー 『私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳』(紀伊國屋書店、2018年)という本を読みました。
〈自己〉に関わる病の取材を通じて〈自己〉について考える本でした。帯から一部を引用します。
「自分は死んでいる」と思いこむコタール症候群、自分の身体の一部を切断したくてたまらなくなる身体完全同一性障害(BIID)、何ごとにも感情がわかず現実感を持てない離人症――当事者や研究者へのインタビューをはじめドッペルゲンガー実験や違法手術の現場も取材し、不思議な病の実相と自己意識の謎に、神経科学の視点から迫る。
見出しの「まるで夢のような私」は、離人症を扱った第5章のタイトルです。離人症(性障害)とは『自己意識が言語以前の最も深いレベルで広く阻害された状態(つまりひとつのまとまりであるとか、ここに存在しているという実感が持てない)』で、次のような症状が現れるとのこと。
- 身体的な実感の喪失。自分の身体から離れたり、つながりを失ったと感じる。
- 主観的情動の麻痺。情動がなくなり、感情移入ができなくなる。
- 主観的想起の異常。個人的な情報を思いだしたり、何かを想像するときに、それが自分のことだと思えない。
- 現実感の喪失。周囲から距離ができたり、切りはなされているように感じる。
離人症性障害の症状 – *ListFreak
身体的な実感や主観的情動が失われると、どんな不具合があるのか。それを知るためには、それらの役割を知らねばなりません。
脳は予測装置
身体感覚・情動・感情・意識のはたらきやつながりに関して、統一的な理論があるわけではありません。しかし著者は『脳が予測装置であるという概念』が近年一般的になってきたと述べています。刺激を受けてから反応を考えて行動に移していたのでは生き延びられないので、脳は常に予測を行い、外界(および生体内)からの刺激に応じて修正をかけているという概念です。
脳は身体と世界の内部モデルを使って、入ってきそうな感覚刺激を予測する。それが実際の刺激と違っていれば「予測エラー」となり、脳は事前信念の内容を更新することで、次に同じ刺激が来たときに正確に予測できる(知覚できる)ようにする。
このメカニズムは「予測コーディング」と呼ばれています。いま引用したのは感覚レベルの話ですが、そのアウトプットにあたる情動のレベルでも予測コーディングが行われているといったように、この概念は多層化されています。
ここからは推測の度合いが高まりますが、著者は、離人症とは(脳の部分的な器質障害など)何らかの原因によって「予測エラー」が頻発している状態ではないかという、次のような考えを述べています。
『エラーに見舞われている脳が、それでもがんばって予測を行った結果、内受容信号の発信源は事故ではなく非自己だと仮定するのだろうか。』
脳は解釈装置
脳はこれから起きることを予測する装置である。同時に、脳はすでに起きたことを解釈する装置でもあります。本書からは離れますが、脳梁を切断された患者が、右脳側(左目)と左脳側(右目)に無関係な写真を見せられても、無意識のうちに両者をつなげた解釈をつくり出すという有名な実験があります。
この、自分の行動を説明するために、簡単にもっともらしい理由を作り上げるという発見は、「作話」と呼ばれている。分離脳患者や脳に損傷を負った人たちを調べると、あまりに頻繁に作話が生じるので、ガザニガは、脳の左側にある言語中枢を説明モジュールと呼んだ。その役割とは、たとえその振る舞いに対する本当の理由や動機を知る手段がない時でさえ、自分の行動すべてに対してリアルタイムで解説を与えることである。
―― ジョナサン・ハイト 『しあわせ仮説』
予測と解釈をつなぐもの
大ざっぱにまとめれば、脳は未来予測と過去解釈を常に行っている装置です。未来と過去をつなぐ「現在」を人間が現在をどう捉えているかについても、てんかんを扱った第8章で面白い仮説が紹介されていました。バド・クレイグという研究者の仮説モデルとのこと。
前部等皮質は、内受容と外受容の感覚、それに身体の活動状況を統合して、一秒に八回の割合で「包括的情動瞬間」をつくりだしている。ひとつひとつの瞬間は独立しているが、それがつながると連続性のある自己意識になるとクレイグは考える。
ヴィパッサナー瞑想の熟練者や脳卒中の経験者は、世界が連続したストロボ映像のように感じられることがあるという話を思い出しました。
予測装置も解釈装置も、現在からの情報を基に精度を高めていきます。では、現在からの情報とは何か。
ここで、冒頭の「離人症性障害の症状」リストが参考になります。
身体感覚。情動。想起。現実(環境)認識。情動でいえば一秒に八回の割合で現れては消えていくそれらの「現在」が、事前予測と突き合わされ、事後説明がつくり出される。そういったフィードバックループの集積が〈自己〉をかたちづくっています。(1) 〈自己〉感とは、今・ここでの実感と言えるでしょう。
離人症を扱った章の終盤、離人症患者が、両親についての悲惨なできごとを著者に語ります。悲しい気持ちはあるけれど、離人症のせいで他人の身の上話を聞いて悲しくなっているようだと言い、こう続けていました。
『ずっと他人の人生を眺めてる感じで、地獄のようだった。これが自分の人生だと実感したかった』
著者が「こんなにつらいことだらけでも?」と聞いても、そうだと言います。「わが身に起こったことだと思えなければ、折りあいもつけられない」と。
〈自己〉感は、健康のように、損なわれてみないとありがたみがわかりません。今・ここを慈しめという言葉の、また新しい解釈を得たように感じました。