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コンセプトノート

716. 「知る」ために「信じる」

「知る」と「信じる」の違い

何かを「信じる」とは、何かを「確たる根拠なしに正しいと思い込む」ことであり、どこか頼りないニュアンスがあります。根拠があれば「知っている」と言えるわけですが、完全に「知っている」と言えることは多くありません。

たとえば、自分がAという物質にアレルギーを持っているとします。店頭で手に取った加工食品にAが含まれていないと、どうやって「知る」か。

パッケージの表示で満足するとき、自分はメーカーの言葉を「信じて」いるわけです。自ら「知ろう」とするならば、成分分析をせねばなりません。しかし、分析装置の示す値で満足してしまうならば、それは装置メーカーを「信じて」いるにすぎません。装置がAを正しく検出できると「知る」ためには、部品や試薬、ひいては検出原理が正しいと証明する必要があります。

そう考えてみると、われわれはかなり他人を信じて暮らしています。それなのに、というか、それだからこそ、社会が円滑に回っている。この「信」の連鎖の不思議さについてじっくり考えてみたいと、ここ数年思っていました。

「信」なしには暮らしていけない

先日たまたま手に取った『トマス・アクィナス――理性と神秘』(山本 芳久、岩波書店)で、まさに「知る」と「信じる」の関係がていねいに考察されていたことを知りました。著者はアクィナスの著作から次のような文章を引いています。

 人間の共同生活においては、一人の人が、自分では充分でないものにおいては、他の人を自分自身のように用いることが必要であるから、他の人は知っており自分自身には知られていないものに対して、自分自身が知っているもののように依拠しなければならない。

すこし長くなりますが、著者によるわかりやすい例示も引用します。

我々が直接的に経験して知っている事柄というのは、この社会のなかのごく一部の事柄にすぎない。新聞やテレビやインターネットを通じて触れる情報が、我々のこの社会についての認識の大半を形成していると言っても過言ではない。我々は、いわば、これらの情報を「信じる」ことによって社会について「知っている」のだ。ときに我々は、あるニュースが間違っていたとか、誰かが意図的に流した嘘の情報に基づいていたという事実に後から気づかされることがある。そうすると、我々は、嘘または誤りを信じてしまっていたことに気づく。

 だが、時に嘘や誤りを事実として信じてしまうことがあるとしても、それを防ぐために、他者が伝えてくる知識や情報を全く信じずに、自分が直接的に経験して知っていることや、論理的に必然的な推論に基づいた数学的真理のようなものしか認めないとしたならば、我々は、この世界についての極めて断片的で一面的な知識しか持てないことになってしまうだろう。

「知る」ために「信じる」

著者は、トマスにおいては「信じる」は、「知る」と対立したり矛盾したりするのではなく、『「知る」ことの一つの在り方であり、また何かを深く「知る」ための大前提ともなる』と述べています。

深く知るためにまず信じるということについて、これも長いのですが、一段落を引きます。

 友人や恋人のような特別に親しい関係においては、相手を信じて深く付き合うことによって初めて見えてくる相手の真の姿というものがある。完全に信じることができないからといって距離を置いて接しているのでは決して見えてこない、それぞれの人の人柄の深みがある。相手がきちんとした人物であると確実な仕方で証明されない限りその人を信じないというのでは、親密な人間関係は成立しない。誰も信じずに孤立して生きていれば、騙されたり嘘をつかれたりすることもないから安全かと言えば、そんなことはない。苦境に陥っても誰にも相談することもできず、喜び悲しみを共有することもできず、むしろ、この世界において安全に幸せに生きていくことの根幹が揺るがされてしまうだろう。この世界には、絶対に確実でなければ信じないというのでは失われてしまう実に多くの事柄があるのだ。トマスがこのテクストにおいて為そうとしているのは、このような仕方で、「信」というものが、人間が生きていくうえで、いかに不可欠なものであるかという事実の指摘だ。

張り巡らされた「信」のネットワーク

「信じる」が「知る」の一部あるいは始まりという発想には共感しました。とはいえ、何もかも信じてよいわけではないでしょう。冒頭のアレルギー物質Aの話も、食品メーカー、分析装置メーカー、部品メーカーと遡っていけば、源には「知っている」人たちがいるはずです。食品メーカーのパッケージ表示を「信じる」とは、その知と信の連鎖構造を「信じる」ことにほかなりません。

その連鎖を「信じる」ことができるのはなぜか。誤りを連発したり嘘をつくようなメーカーは買い手から「信じて」もらえずに淘汰されるはず、という世の中のメカニズムを「信じて」いるからです(こういった信のネットワークの大元、社会を支える前提には「論理」や「信仰」が横たわっているわけですが、今回はそこには踏み込みません)。

そのような世の中で善く生きるために備えるべき能力が「徳」にほかなりません。トマスが(再)定義した枢要徳(賢慮、正義、勇気、節制)や神学的徳(信仰、希望、愛徳)については後日改めてまとめてみたいと思います。