ダブル・スイング・セオリー
先日、哲学者吉川宗男先生から、ご著書『文化摩擦解消のいとぐち: 異文化間コミュニケーション』という本をいただきました。本書では先生が考案された「ダブル・スイング・セオリー」が解説されています。
ダブル・スイング・セオリーとは、大まかにいえば異文化間コミュニケーションの枠組みで、象徴として「∞」の記号が用いられています。
∞の含意
コミュニケーションは、相手に同化することでも、相手を同化させることでもありません。その意味合いで「○」ではありません。白黒をつける二者択一「◑」でも、自分は自分、相手は相手とする非干渉「○○」でもありません。太極図「☯」のように融合を図るわけでもありません。弁証法的に第三の解を導こうということでもありません(正反合のイメージを図にすると「∴」でしょうか)。
吉川先生は「∞」の着想を哲学者マルティン・ブーバーから得たと書かれています。ブーバーの思想は対話の哲学として知られていて、自分(〈われ〉)は、自分と向き合っている他者(〈なんじ〉)との関係から生まれてくるという立場です。代表的著作『我と汝』から象徴的な文章を引用しましょう。
人間は〈なんじ〉に接して〈われ〉となる。向かい合う相手は現われて、消えてゆく。関係の出来事が集っては、散ってゆく。こうした変化の中で、なん度も成長しながらも、つねに同一のままの相手である〈われ〉の意識が、しだいに明らかになってくる。 (P39)
〈われ〉は単独では存在せず、〈なんじ〉との関係として顕れます。「∞」は自分と相手との関係性を表すと同時に、関係性そのものが自分であることを示しています。自分をよく説明するためには相手をよく理解する必要があります。同時に、相手をよく理解する営みは自分の理解を深めます。
異文化遭遇クリエイティブ・プロセス
近著『出会いを哲学する』で紹介されていた「異文化遭遇クリエイティブ・プロセス」を「∞」に関連づけると「ダブル・スイング」のイメージが湧きます。
- [Ah!] 出会い・ハネムーンの段階。互いの「違い」が新鮮で魅力的に感じられる。
- [Ah↓] 失望の段階。魅力的だった「違い」が「間違い」に感じられる。
- [Aha!] 気づき・発見の段階。違いや共通性を互いに認め合えるようになる。
- [Ahaha!] 新価値創造の段階。枠に囚われていた自分を「Ahaha!」と笑えるほど、心にゆとりが出ている。
異文化遭遇クリエイティブ・プロセス – *ListFreak
プロセスは∞の左端から[Ah!]と左上の山に上るものの、[Ah↓]と右下へ下ってしまいます。しかし[Aha!]で右端をぐっと上り、[Ahaha!]と左下へと滑り降りて一周します。
吉川先生はダブル・スイング・セオリーを、いってみれば「ものの見方」へと拡張して「メビウス理論」と命名しています。
わたしの理解ではこんな感じです。我と彼、個人と組織、利益と倫理など、対立する概念をとりあえず∞の2つの輪に入れてしまう。そしてそれらを、「ダブル・スイング」している系として理解してみる。たとえば〈個人〉と〈組織〉を∞でくるむ。互いが互いを必要とする存在と捉えた上で、自分の主張を相手の立場から考える。それをまた自分の立場で考え直す。
輪でくるまれているがゆえに、両者は離れません。しかし輪がねじれているがゆえに、一緒にもなりません。そういった両者の「間」がつくり出す「場」を、まるごと理解する。そんな懐の広さを感じる理論です。
メビウスのメガネ
先日久しぶりに講義を拝聴してハッとしたのは、弁証法的な発想との違いを述べられていた部分です。「正」と「反」と並べると、つい「合」を期待してしまいますが、私の理解では、メビウス理論はかならずしも第三の解をひねり出すことを目的としていません。つい急いで解を求める性向にあらためて気づかされました。
逆説的ながら、よくよく理解を深めることでものの見方が変われば、自然と解が見つかることが多いでしょう。問題そのものが変わる、ひいては解消することもあるでしょう。
メビウスの輪を一周すると同じ位置に戻らないように、上述のようなプロセスは、上から見ると∞を一周したように見えますが、横から見ると高い位置に上っているという解説がありました。ちょうどロープを∞の字を書きながら重ねていくようなもので、ダブル・スイングを重ねていくと視座が変わってきます。
先生はそのアプローチを「メビウスのメガネをかける」と表現しておられます。