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コンセプトノート

672. コント・ランデュ(自らの言葉による要約)

定義

フランスの哲学者アランは、言葉の定義をカードに書き留めており、それらは死後に『定義集』として出版されました。短いものを一つ引用します。

無秩序 |DÉSORDRE|
それは情念〔PASSION〕の徴しである。恐怖〔PEUR〕、怒り〔COLÉRE〕、復讐、陶酔〔IVRESSE〕の痙攣はみな無秩序である。それは群衆の中で極点に達する。

無秩序という言葉から、理科の時間に習ったブラウン運動のような乱雑な状態をイメージしつつ読むと、第一文で、それは「情念の徴(しる)しである」と宣言されています。どういうことなのか。

すぐに、さまざまな情念の「痙攣」はみな無秩序であると言い換えられていて、事象でなく心象のことを言っているのだと気づきます。感情のメーターが振り切れて麻痺しまったような状態でしょうか。そしてそれは、「群衆の中で極点に達する」。なるほどたしかに、と得心します。

あらためて見出し語を見てみると、これは英語でいう disorder らしいことに気づきます。とすれば、この定義を踏まえると、自分なら「無秩序」より「混乱」という言葉を充てるかなあ、などと、訳書ならではの寄り道的な楽しみもあります。

さらに、ほかで定義されている言葉は、情念〔PASSION〕のように示されているので、それらをたどってみることもできます。

納得できる定義、違和感を感じる定義、よくわからない定義、いろいろあるのですが、なんにせよ楽しい本で、読んでいるうちに自分の版を作りたくなります。実は十年ほど前に「今年の目標」に掲げたものの、あまりの難しさに中断、「一生の目標」に切り替えました(参照:『「マイ定義」の力』)。

学びとしての定義づけ

アランは、生徒にもこの「定義」を練習させていたと、「原書出版社の序」に書かれています。

アランの学校教師としての最後の数年間(およそ一九三〇-一九三三年)に、かれの教えを受けた者は、かれが教室でどういうふうに定義を即席に綴ることを生徒に課したかを語っている。綴られた定義はその揚で読みあげられ、検討され、補足され、訂正されたのち、力勁い句となって黒板の上で完成されることが多かった。それを記憶している者は多い。アランは書いている、「この練習は、私の創始したいちばんよい練習であった」と。

自分の経験からもこの作業の有効性を実感しているので、仕事にも採り入れています。たとえば一日がかりの研修の最後に、かならず自分の言葉で学びを定義してもらうようにしています。

具体的には、資料を配る前に(配布済みの資料があれば読まないよう伝え)、まず自分の言葉でメモ書きをしてもらいます。次にそれを数人のグループ内で相互に読み上げます。同じ内容を学んだ仲間が違う理解をしていることを発見するのも面白いですし、ほとんどの場合、その「違い」は各自の関心や知識などの前提の違いから来るものであって「間違い」ではないという事実もまた、学びを深めます。

コント・ランデュ

このような、「自分の言葉でまとめ直す」作業に名前が付いていることを知りました。

フランスの高校では「コーント・ランデュ」という科目があると聞く。教師の語りを、教師のその言葉ではなく、じぶんの言葉で要約する練習である。そのことで、なじんできた言葉の世界に楔が打たれ、未知のそれへと編みなおされる。この練習には、思考とはじぶん以外の者との対話であるという考えが込められている。
―― 鷲田 清一 『人生はいつもちぐはぐ』

実際に高校の科目名なのかどうかは調べがつかなかったのですが、「自分の言葉による要約」をコント・ランデュ (compte-rendu) と呼ぶのはたしかなようです。

「思考とはじぶん以外の者との対話である」という鷲田の“定義”を読んで、気づかされるものがありました。『定義集』の著者アランが「これが定義だ」と言い切る文章の読解や言い換えを試みるのは、格好よくいえば著者との対話なのでしょう。

『定義集』のコント・ランデュを試みると、彼我の差を痛感します。アランは、わたしも知っている平明な言葉だけを使って、わたしがとても表し得ない概念を端的に表現してみせてくれます。「うまく言えない」「言葉では説明できない」という言い訳をすっぱりと断ち切ってくれます。

鷲田は、こうも言っています。

実在の、あるいは書物のなかの人との出会いをきっかけに、それまでより「もっと見晴らしのよい場所に出る」ということが、「まなび」の意味だ

『定義集』のコント・ランデュは一方的な対話ではありますが、わたしにとっては好都合かもしれません。書物は、いくら時間をかけても怒らず待ってくれますから。