カテゴリー
コンセプトノート

653. 釘的スキルセット、画鋲的スキルセット

汎用的なスキルの修得はあり得ない

たとえば「いた、においのする、前に、彼の、ピーナツを、良い、空腹を、食べていた、女性は、ので、とても、彼は、抑えられなかった」といった一見無作為に並んだ単語を一語一句復唱しろと言われると、平均的な人は最初の六つしか覚えていない。だが同じ単語を「彼の前にいた女性はとても良いにおいのするピーナツを食べていたので彼は空腹を抑えられなかった」といった明確な意味がある文に直すと、ほとんどの人が大部分を記憶できるし、中には完璧な順番で覚えられる人もいる。

前回に続いてアンダース・エリクソン 『超一流になるのは才能か努力か?』(文藝春秋、2016年)からの引用です。二つめの並び順をよく記憶できるのは、既存の「心的イメージ (mental representation) 」が意味を与え、意味が記憶を助けるからと説明されています。チェスプレーヤーが実際のゲームでの駒の配置はよく記憶できるのに、ランダムに置かれた駒の配置はうまく記憶できないのも、後者では心的イメージが使えないからです。

著者は心的イメージを『事実、ルール、関係性などの情報がパターンとして長期記憶に保持されたものであり、特定の状況に迅速かつ的確に反応するのに役立つ』『通常は短期記憶によって心的処理が受けるはずの制約を回避するための概念的構造』などと定義しています。

心的イメージは特定の状況にすばやく適応するための仕組みなので、それが使えるのは特定の分野に限られるそうです。冒頭の例でいえば、語順の心的イメージは数字列を記憶するのには役立たず、チェスの心的イメージは視空間能力を引き上げるものではないとのこと。

そのような研究結果を引きつつ、著者は『汎用的なスキルの修得などというのはあり得ない』と論じます。

たとえば記憶力全般を鍛えることはできない。鍛えられるのは数字列の記憶力、語群の記憶力、あるいは人の顔の記憶力、といったものだけだ。また、スポーツ選手になるために訓練する人はおらず、体操、短距離走、マラソン、水泳、またはバスケットボールの選手になるために鍛える人がいるだけだ。

いや、あり得るかも知れない

一方で、スキルは転移する ―― ある技能を鍛えることで他の技能が高まる ―― という研究もあります。しかも、比較的短期間の訓練で知能が高まるという研究です。

科学ジャーナリストである著者のダン・ハーリーは、『知能はもっと上げられる : 脳力アップ、なにが本当に効く方法か』で、スーザン・ヤーキとマーティン・ブッシュクールという二人のスイス人研究者の成果を紹介しています。彼らは作業記憶(ワーキングメモリ)の短いトレーニングが流動性知能を引き上げたという研究結果を示すことで、これまで生得的で不変と考えられていた知能が開発可能なスキルである可能性を示唆しました(ハーリーは「懐疑派」エリクソン教授にもインタビューしています)。

エリクソン教授は「熟達には一万時間の練習が必要」という立場で、しかも熟達できる領域は限定されています。一方で、作業記憶を高めることで流動性知能が高まるならば、短期間で多くの認知的技能を引き上げられることになります。この論争は今も続いているようです。ハーリーは、訳書のタイトルが示すように「知能はもっと上げられる」派です。個人的にはわたしもハーリー側に立ちたいのですが、書籍の説得力という点ではエリクソン教授に軍配を上げます。

釘的スキルセット、画鋲的スキルセット

ここで、エリクソン教授の研究対象が世界レベルのパフォーマーであることを思い出さねばなりません。「それを修得すれば体操でも短距離走でも世界レベルの選手になれるようなスキルはない」という意味では、納得できます。

しかしもう少しレベルを下げれば、違った世界が見えてきます。記憶力全般を高いレベルで鍛えることはできないとしても、チャンク化(記憶する全体をいくつかに分ける)といった汎用的なスキルは存在すると思います。スポーツでいえば、陸上の十種競技。任意の選手が相対的に強い種目を3つ挙げれば、それは走/跳/投のどれかに偏るでしょう。これは走力、跳躍力、投擲力といった汎用的なスキルが存在するからであり、十種が独立したスキルを要求されるのであれば、そうはならないはずです。

エリクソン教授の研究対象は、スポーツや芸術、学問のような比較的純化された領域です。そこでは少数のスキルセットを磨き抜くことが重要といえるかも知れません。ビジネスの世界で単純化していえば、スペシャリストとして成功を収めるためにはエリクソン教授の理論がよく当てはまるように思います。一方で、たとえば経営という職務は、時代によって求められる機能が違います。つまり一万時間をかけて磨くべきスキルそのものが定義できません。となると、何でもある程度できるようにしておき、外部環境が求めるスキルを素早く磨くというメタなスキルが必要になります。

言うなれば、前者には「釘」的スキルセットが、後者には「画鋲」的スキルセットが、求められているように思います。