クイズ「裁判費用」
次の2問を、三者択一問題として考えてみてください。選択肢は各設問に添えてあります(引用元は後述)。
- 自分が訴えられて、裁判で勝った場合、自分の裁判費用は訴えた相手が負担すべきか?
(はい/基準を決めて按分すべき/いいえ) - 自分が訴えて、裁判で負けた場合、相手の裁判費用を自分が負担すべきか?
(はい/基準を決めて按分すべき/いいえ)
わたしは1を読んで「突然訴えてくるなんて、なんと迷惑な」と感じました。回答は当然「はい」つまり相手がすべて負担すべきです。一方で2は「自分が訴訟を起こすなんてよほどの事情があり、よほどの確信があったに違いない。こちらの敗訴だったとしても、相手もきっと内心では非を認めているはずだから、費用負担については交渉に応じるはずだ……」と明確に言語化したわけではないものの、そんなことを考えて「基準を決めて按分すべき」と考えました。
はずかしながら、両問の回答が違うのはおかしいと気づくまで2回読み返してしまいました。次のように「自分」を「A」に置き換えてみれば、設問が同じ内容なのは明らかです。
- Aが訴えられて、裁判で勝った場合、Aの裁判費用は訴えた相手が負担すべきか?
- Aが訴えて、裁判で負けた場合、相手の裁判費用をAが負担すべきか?
これらのニュートラルなはずの文章を、きっと次のように脚色して読んでいたのだと思います。
- (清廉潔白な)自分が(突然、理不尽にも)訴えられて、裁判で勝った場合、(無実の)自分の裁判費用は(勝手に)訴えた相手が負担すべきか?
- (平和を愛する)自分が(やむなく)訴えて、裁判で(正義の主張が認められずに)負けた場合、(法的には問題が無くても、道徳的には非がある)相手の裁判費用を(勇気を持って告発した)自分が負担すべきか?
つまり、わたしの思考をゆがませたのは「自分」の2文字だということになります。無常無我と念じていてもこんなものかと、自分にちょっとがっかりしました。
ただ、慰めにはなりませんが、これは一般的な傾向でもあります。このクイズを引用した『交渉の達人』によれば、1にイエスと答えた割合は回答者の85%、2にイエスと答えた割合は44%だったそうです。(1)
このように自分を特別視する傾向は、著者によれば「自分中心主義」(egocentrism)と呼ばれています。
小さないじわる
自分中心主義は、「自分」と自分以外の人との間の境界についての話でした。さらにわれわれは「自分の側」つまり仲間とその外側という境界もたくさん持っています。この境界はちょっとしたきっかけからでも生まれます。小さいころ、運動会などで自分が紅組になって紅い帽子をかぶったとたん、紅組にはいいやつが多く、白組にはズルいやつが多いように感じたものです。
人間社会における「よくないと思われることの全て」は、これらの境界から生まれるのではないか。作家のよしもとばなな氏は、ダライ・ラマ14世との共著でそのように述べています。(2)
殺人とか人を死に追い込むいじめとかにつながっていくよくないと思われることの全ては、自分と他人とをはっきり違うものとして分けることから、それから自分の仕事なり家庭なり小さな範囲を決めて、そこの外側にあるものには関与しない、つまり私のよく使う用語で言うところの「小さないじわる」のようなものからスタートするのではないかと思います。
氏が例として挙げているのは、ちょっとしたイヤミ、ちょっとした不親切、ちょっとしたあてつけなどです。ちょっとした無為(やればできる親切を、あえてせずにおくこと)なども「小さないじわる」でしょう。
小さな意地悪(意地悪という漢字にインパクトを感じるので読み替えます)を減らしてみたら、できればなくしてみたら、どうなるだろう。これは魅力的な取り組みに思えます。誰しも、小さな意地悪をしないですませるスキルは持っています。尊敬する人と会話するときのことを思えば、明らかにそう言えるでしょう。そのスキルを発揮する場所を少しずつ広げ、時間を少しずつ延ばしていってみると、何かが指数関数的に変わっていきそうに思えます。
せっかくなので、小さな意地悪を減らすために持ち歩く三か条をこしらえておきます。「動揺を切り抜けるための”SOS”」をベースに考えてみました。
- 【感知】 波立つ心に気づき、一拍置く。
「その場」系の三か条なので、最初はやはりStopです。習慣化された小さな意地悪を食い止めるためには、意地悪ルーチンが発動するきっかけをつかまなければなりません。(参考:「習慣の3段階ループ」) - 【共感】 いま相手は何を感じているか、自分はどう映っているかを考える。
クイズ「裁判費用」に引っかからないためには、つまり自己中心性を補正するためには、相手の感情や思考を推測できなければなりません。第2文の、相手から見て自分がどう映っているかを考えるのは、一般的な「共感」とはすこし違う作業です。ここでは避けがたく発生する自己中心性を借りて、自分についての情報を集めるという目的をきっかけに相手の視点を獲得することをねらっています。 - 【寛容】 思いやりのある言動を選ぶ。すくなくとも相手を害しない。
衆善奉行、諸悪莫作です(参考:「七仏通誡偈」「カッと来た時、口を開く前に思い出すべき『三つの門』」)。
小さな意地悪を減らすための「3カン」 – *ListFreak
(1) この設問と回答自体が雑誌記事からの引用なのではっきりしませんが、おそらくはイエスかノーかの二者択一で問いかけた結果でしょう。原注には引用元として U. S. News & World Report (2005, January 30), 52 とありますが、ネットでは確認できず。日付からすると2005年ではなく1995年ではないかという疑いも持ちましたが、いずれにせよ調査の詳細については調べがついていません。
(2) 「11月24日講演レポート │ ダライ・ラマ14世講演会記録」でもほぼ同じ文章を読むことができます。