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コンセプトノート

535. 人=象に乗った猿

お猿さんは瞑想などできない

坐禅でも瞑想でも、呼吸の観察を行います。坐禅では調息といいますね。このとき「私が息を調える」と考えてしまうと、実は意味がない。調息は意思によって呼吸をコントロールする訓練ではないからです。

私でなければ、誰が息を調えるのか。あえて言えば息です。坐禅だけに禅問答めいてしまいますが、坐禅や瞑想の目的はあれこれと勝手に思考をめぐらす「私」を鎮めることなので、「私」が主語にはなりえません。かといって「私」を「私」が消し去ることもできない(難しい)ので、「私」は息の調い具合をただ眺めます。
※上記はわたしなりの解釈です。坐禅や瞑想を違う目的で行う人もいれば、目的自体を持たない人もいるかもしれません

アップデートする仏教』という二人の僧侶の対談で、藤田一照という曹洞宗の僧侶が、強為(ごうい)と云為(うんい)という言葉を使っていました。これは道元禅師の『正法眼蔵』に出てくる言葉だそうで、強為は「自意識的意思による強引な行為」で云為は「任運自然の動作」と解説されています。

『正法眼蔵』を紹介しているサイトを検索してみると、強為はたしかにそんなニュアンスでした。云為はよくわかりませんでしたが、素直に解釈すると「云うこと為すこと」なわけで、意思の働かない自然な動作という解説には納得がいきます。

「私が息を調える」のは強為で、「息が調う」のは云為ということですね。

見出しの「お猿さんは瞑想などできない」は、この本の見出しからの引用です。「お猿さん」とは、上記の「自意識的意思を持った『私』」のこと。仏教では人間の心を猿・馬・子牛など様々な動物にたとえているそうで、調べてみると心が落ち着かない様子を指す「意馬心猿」という四字熟語がありました。お猿さんに瞑想をさせようとするのは強為になってしまいます。

人の心は象に乗った猿

お猿さんよりもすぐれていると思うのは「象使いと象」のたとえです。これは最近の愛読書である『しあわせ仮説』で著者のジョナサン・ハイトが使っている比喩です。

この例えでは、お猿さんが象使いです。ハイトによれば「意識的で制御された思考」が象使いです。そして象は「その他のすべて」です。象には『直感や内臓反応、情動、勘などが含まれ、それらが自動化システムの大部分を構成している』と書かれています。

この比喩のポイントは、象使いにはあまり力がないということ。象使いは御者でなく、象の「助言者か召使い」にすぎないことを、ハイトは豊富な文献を引用しながら明らかにしていきます。思考は情緒を制御できず、むしろ情緒に動かされて跳ね回りやすいという点を踏まえると、象の上にちょっと賢い猿が乗っているというイメージが、さらにわかりやすいかもしれません。
『しあわせ仮説』と『アップデートする仏教』を併せて読んでみて、瞑想が思考を明晰に保つうえで役に立つ理由が説明できるように思えました。

瞑想とは象を直接観る試み

「私」という象使いは、実はお猿さんで、ふだん象に乗っていることにすら気づいていません。象が右に向かったのを知ってから「そうそう、右に行きたかったんだ」というくらい、象に支配されています。リアルな例えでいえば、ムカッという情動シグナルを象が発したのを受けて、象使いは「客観的に考えても、あの行動は許せない」などと思考します。

しかも象は揺すったり向きを変えたり、象使いに休まず刺激を与えています。それをインプットとして、象使いのお猿さんもめまぐるしく思考します。象使いは自分で見聞きしたことに基づいて考えているつもりでも、実は象から伝えられた情報なので、ほとんど妄想といってもいいかもしれません。

もし象使いが、象からの信号をただ受け取ることに専念してみたら、つまり瞑想をしてみたら、どうなるか。自分を忙しく思考させているものの源が、多少つかめるようになります。非合理的な信念や何かへの執着といった、象のクセにも気づけます。