よく驚ける人がよく考えられる
「自分で考える人材を育てたい」。顧客企業からもっともよくいただくご相談です。もちろんその支援をしますと謳っているのでそういう話題が多くなるわけですが。
今回は自分で考えるという言葉をすこし掘り下げつつ、人に何かを考えさせる源に向かいます。
考えるというプロセスは、何らかの問いの答えを探すという形で進行しています。「どう生きるべきか」という深遠な問いから、「今日のランチはどうしようかな」という日常的な問いまで、およそ何かを考えるとき、意識するしないに関わらず、そこには問いが張りついています。
ということは、自分で考えるためには、まず問いを思いつかなければなりません。
では、人に問いを思いつかせるものは何か。一冊まるごと問いの本である、アンドリュー・ソーベルらの『パワー・クエスチョン』によれば、アインシュタインはこう言ったそうです。
「私には特別の才能があるわけじゃない。ただ好奇心が旺盛なだけだ」
好奇心とは「珍しい物事・未知の事柄に対して抱く興味や関心」(『大辞林 第三版』)のこと。好奇心が問いを思いつかせるものとして、さらにさかのぼります。
人に好奇心を抱かせるものは何か。それは驚きの感情(情動)です。
人は驚きの情動を受け取ることで、目の前の事象が「珍しい物事・未知のことがら」であることを認識します。このとき同時に不快の情動を受け取ると恐怖や怒りが生まれます。そうでなければ好奇心が生まれ、探究を促します。
ここまでは知識の整理。ここからが今回の探究です。さらにもう一段階だけ遡って、人を驚かせるものは何かを、今回は好奇心につながるものに絞って、考えてみましょう。
いろいろと考えた・考えさせられた経験とそのきっかけを思い出し、まとめてみます。
芸術家の驚き、科学者の驚き、改革者の驚き
まず驚きには、能動的な驚きと受動的な驚きとがあるように思います。
能動的な驚きとは、当人が強い予断あるいは理想像を持っていたために生じる驚きです。つまり、あらかじめ「こうあるべき」というはっきりしたイメージを描いていたので、そうでない事象に出会ってびっくりすることです。
受動的な驚きとは、それ以外の驚き。当人は特に予断を持っていなかったにも関わらず、ある事象に出会ってびっくりするということです。
受動的な驚きは、さらに感覚の驚きと理屈の驚きに分けられそうです。
感覚の驚きとは、たとえば夕焼けの見事さに驚くといった、感覚的で、それだけで完結した驚きです。
理屈の驚きとは、理に適っていないことが起きたときに生じる驚きです。路上の石が浮かび上がったら、驚きますよね。これはわれわれの経験的な理(ことわり)に適っていないことが起きたからです。
それぞれの驚きに名前を付けましょう。感覚の驚きは「芸術家の驚き」、理屈の驚きは「科学者の驚き」、能動的な驚きは、やや大げさですが「改革者の驚き」でどうでしょうか。
それぞれの驚きは、異なったアウトプットへの欲求へとつながっているように思えます。芸術家の驚きは表現、科学者の驚きは探究(思考)、改革者の驚きは行動へと、駆り立ててくれそうです。
最初の問いに戻って整理します。自分で考える人とは、自ら驚きをつくり出せる人です。自ら驚きをつくり出すために、たとえば芸術家の目で、科学者の目で、そして改革者の目で、日常業務を観察するトレーニングを積むという案が使えそうです。
今回のノートを振り返ると、科学者の驚きがあったように思います。なにかが理に適っていないというよりは、「自分で考える」ことを理屈づけようとして理がよくわかっていなかったという驚きから、あれこれと考えがふくらみはじめました。