手ぶらでも常に持ち歩いているもの
あるラテン語の格言の出典を確認したくて、柳沼 重剛『ギリシア・ローマ名言集』という本を読みました。タイトル通り古代ギリシアとローマの名言が、短い解説とともに並んでいます。その中に印象的な一節がありました。解説の一部とともに引用します。
私のものはすべて、体といっしょに持ち歩いている。
omnia mecum porto mea.
(キケロ『ストア派の矛盾について』8)
ギリシアの七賢人の一人ビアスが、祖国プリエネが占領されたとき、だれもが家財をもって逃げる中に、彼が何ももたずに逃げるので、人々が「あなたも何かもって行った方がいい」とすすめると、彼が上のように言ったという。「私のもの」とは「知恵」である。
知恵こそ常にわれわれが持ち歩いているもので、その真価は持ち物をすべて失ったときに発揮されます。アウシュビッツ収容所に入れられてなお、精神の自由を奪わせなかったヴィクトール・フランクルを思い出しました。
今回は、祖国を失ったり収容所に入れられたり大災害に遭ったりといった大変な状況でなく、日常的なシーンで「知恵以外何も持たない」状況を考えてみます。
フランクルの次に思い出したのは、仕事や生活のさまざまなシーンでした。何も持たずに何かをする機会は意外に多いことに気づいたのです。たとえば顧客ヒアリング。あるいは講義の中の質疑応答。さらには職場や家庭での雑談。
意外に、そんなときに自分の知恵が問われているのだなあと、思いを新たにしました。
何も持たずに仕事をする
この「何も持たずに何かをするときに知恵が問われる」という発想は、仕事のエクササイズとして活用できそうに思います。
たとえばセールスであれば、一切の資料を持たずに受注することができるかを考えてみるということです。あまりにも厳しいならば、初回訪問を資料なしでやりおおせ、次回訪問につなげられるかを考えてみます。
パンフレット・デモなど一切の資料は使いません。ただし紙かホワイトボードに書きながら話をすることはOKとします。
するとどうなるか。まずは話す内容を厳選せざるをえません。厳選する以上、自分の言いたいことではなく相手の聞きたいことを話したいと思うでしょう。少ないポイントで網羅性を高めるため、話の枠組みを考える(例:品質・納期・価格の3点からアピールしよう、など)はずです。さらに記憶を確かなものにするために、ストーリー仕立てにするなどして話に一貫性を与える工夫を施すでしょう。
何も見ずに話せるまでに練られた話であれば、それは聞き手にもわかりやすい話になっているでしょう。「何も持たない」と想定することで知恵が引き出せたことになります。
会議も「何も持たない会議」をしてみます。たとえば社内プロジェクトを立ち上げたいという提案について話し合う会議としましょう。提案者は一切の資料を用いずに提案し、メンバーは一切の資料を見ずに決断しなければなりません。
「何も持たない研修」も面白いですね。テーマを問わず、一切のスライドも配布資料も無しで丸一日を費やして研修をするとしたら、どのように進めるか。じっくり考えてみようと思います。
目をつぶって話を聞く
何も持たずに仕事をするなど、エクササイズにしても荒唐無稽に思われるかもしれません。でも最近すこし似た話を読んだことを思い出しました。広告の提案をチェックする際に、目をつぶってしまうという上司の話です。博報堂のクリエイティブディレクター小沢正光の『プロフェッショナルプレゼン。 相手の納得をつくるプレゼンテーションの戦い方。』から引用します。
そのクリエイティブディレクター(引用者注:上司)は、じっと目をつぶって話を聞くのだ。そして、聞き終わると、「なるほどね。でも、わかんねぇよ、小沢」と、バッサリ斬り捨ててしまう。
正直なところ、これには弱った。ビジュアル重視のデザイナーでもある人なのに、ビジュアルを見ずに話だけを聞くのである。企画書も、広告表現の案も見てくれない。頼りは話の内容だけ、だ。論旨の明快さを求める姿勢は、このときにずいぶんと植えつけられたように思う。
目をつぶって話を聞くことは、何も持たない相手の話を聞くことです。相手の知恵を聞くといってもいいでしょう。 このように仕事をしている人もいるのです。